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プライベートの詮索 神霊の力の是非

プライベートの詮索というのは、どこまでの事だろうか。基本的に、詮索するのは、良くないという風潮がある。ただ、困っている時というのは、詮索してほしいという気持ちと見られたくないという気持ちの双方があるように思える。
仮に、そのような目に見えない力で、詮索をするのは、ある意味信用問題に関わる。が、本当に困っている時は、そのような力を用いてほしいのではないだろうか。子供が、虐待されている場合、「助けてー、神様ー」ではないだろうか。が、事態が深刻になるのが、ほとんどのような気がする。そのような時に、目に見えない力を行使するのは、どうなのだろうか。私には、まだ腑に落とせていない。嫌だなと思う気持ちもあったからだ。何かお見通しというのは、嫌だなと思ったからだ。だから敢えて、白状しなさいという脅迫をするのかもしれない。白状した場合は、白状するという選択をした自分がいるからだ。警察官が、自白させようと温情やら非情やらで接することがあるが、これも、実は、そうなのだ。相手がサラ金に手を出しているか、確認をしてもいいのだろうか。やはり、何となくやめといた方がいい気がする。自分の事を確認するのは、まだ良いとしても、他人の事を確認するのは、少し違う気がする。が、どうなのだろうか。相手に頼まれた時に、するのは、良いだろう。が、こちらから、何か働きかけるなら、通常の働きかけがいいのかもしれない。そもそも、知ってどうするという問題もある。知っても動かないなら、意味がないとも言える。というより、サラ金に手を出しているかどうかを知ることが大切ではないような気もする。人の真実というのを、見るのも、社会的意義は、どこまであるのだろうか。
「あなた、ねこばばしてるでしょ」という警告は、何になるのか。悪用の範囲というのは、どこからなのだろうか。
常識というのは、感謝ができている人が作ったものも多い。それに従うのも大切だ。毎日することを作るというのも大切だ。どうも、このプライベートの詮索というのは、腑に落とせない。ケースバイケースな気もする。が、例えがないと、共通理解が得られない。私の例で言えば、朝早く起きてないという事実を詮索されたら、どうだろうか。受け入れる態勢ができたかどうかかもしれない。占い師にどこまで、読まれていいかは、本人の受け入れる度量によるのかもしれない。恋人がいるかいないかというのは、詮索になるような気がするので、本人が、望まない限り、することではないだろう。思考過程を書けば、更にどの人も気付けるはずだ。公表しているか、していないかなのかもしれない。その人が、どこまでオープンする段階かに依るのかもしれない。よって、私が、目に見えない力で助けてほしいというのも、甘えなのだろう。何か、絶望にあるというのは、何かしらのメッセージがあるからだ。メッセージに気づけば、自然と上向くからだ。社会的なニュースの真実というのは、良いのかもしれない。が、やはり自分自身に当てはめる動作がないと、意味がないのだろう。となると、知りたいことというのが、ほぼなくなってくるのだった。「あなたの無意識世界の詰まりはここですよ」というものなのだろうか。私には、まだわからない。知る責任というものも、存在するからだ。