verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

自分が純粋フラットになれているかどうか 哲学が意味があるか

自分が純粋フラットになれているかどうかは、やはり家族とうまくいっているかどうかがバロメーターだ
私は、大好きな人ほど、愛している。倒錯したものも、許している。大好きな人ほど、近くにいたくないという気持ちだ。大好きな人ほど、壊したくなるのだ。完璧そうに見える人ほど、魂で、反抗するのだ。より鍛えるために。私は、元東レの佐々木常夫さんの本に、いつも助けられた。とても有り難い。が、私は敢えて、だからこそ、会いたくないのだ。純粋フラットと内外反転を極めると、世間で言われている神のような人だという認識と、自業自得だろという認識が、混ざり混ざるからだ。敢えて言えば、家庭と会社双方大変こなしましたという視点だけではないのだ。このような視点だけを持つと、人は同じようにばかり見てしまう脳の癖があるのだ。
何でもやればいいのではない。人一倍、執着心が強いのだ。それを美化した視点だけでは、足りないのだ。
魔に勝ち続けた人も、魔に負け続けた人も、同じくらい沢山愛を振り撒いているのだという慈悲も愛なのだ。
魔に勝ち続けると、より強い魔が襲うという法則があるのだ。当たり前だが、家族は感謝しているだろうが、第三者視点で言えば、ある意味困るのだ。手を抜くことも、時には、必要なのだ。その事をこれでもかと伝えたかったのかもしれない。
彼は、神であった。数多の困難に打ち勝った愛がとてつもなく強いからだ。貴方には、わからないだろう。魂の声にしたがっていないからだ。魂の声に愛が詰まっている。
家庭では、うまくいっていない場合、どこかの魔に負けている。布団干しを、人の分まで、親切にやるか迷う魔だったり、水やりをやる魔だったりだ。何かしら、魔に負けていると、甘えが出る。
家事手伝いで、親よりしっかり家事をしている子は、どれくらいいるだろうか。
家事手伝いのプロなら、どうするだろうか。私は、たいてい親任せだ。
ごめんなさい。ありがとう。である。
代わりに、このblogを書いている。
会社では、雑用を率先して、芸術的にやる人が、一番伸びる。
掃除機もそうだ。ただ、それは、会社ではなくても、生きている空間で、できるかどうかだ。私は、掃除機を率先してかけていたが、手を抜くようになった。やはり、それは管理者として、不適だった。
どの物事も、循環しているから、意味があるのだ。循環しているものは、より循環するのである。
目標を達成することだけではなくて、深い意味も考えることが大切だ。
そのためには、
忙しすぎる生活は、心のゆとりをなくしているのだ。何かに執着しているから、心のゆとりがなくなるのだ。
見栄っ張りの魔にやられているのだ。
物理的な問題だけではない。
サイズだけの問題でもない。人と繋がる事で見えてくることもある。
自分を見直し続けることだ。
また、人の分までやる魔に勝ち続ければ、人から信用されるのだ。信用は、自分で勝ち取るものだ。やり過ぎると、見栄っ張りの魔に変わっているのだ。そしたら、抑えるのだ。こういうのを、純粋フラットなのだ。
「車拭いといて」という一言で、すぐに、全部しっかりやることなのだ。ちなみに、やらない時もある。が、それは逆の魔のパターンなのだ。
私は、母親を温泉に連れていきたいが、私は、温泉には入らず、違うことをしている。特に異性なので、問題がない。母は、温泉が好きなので、入ってもらう。私は、その温泉の近くの風景や町並みを楽しむのが好きなのだ。別行動が、いつでもできるのが、自立なのだ。
私は母と父が別行動ばかりのように感じていたが、それは私の思い込みだったのだ。
私は子供じみていて、誰かといる時は、一緒にやるのがいいという、思い込みだったのだ。
夫婦生活は、きっちり円満であれば、共通の信仰を持たなくても良いのだ。やはり、私がまだまだ視点転移できてないのだ。
また、共同行動もきっちりやるのが、自立なのだ。支配されないという事は、支配しないということなので、自分の思い通りにいかせられないということだ。それぞれの人生は、同じように見えても、同じところに行っても、違う景色を見ているのだ。いや、見たいのだ。
全て、自由行動とも言える。裏返すと、全て自己責任なのだ。
母に、ギャグを覚えてくれるように、ギャグを気付いてもらうように、努めている。なかなか、難儀なのだ。ギャグをしても、気付いて貰えないと、かなり寂しいのだ。スベった方が、百倍マシなのだ。スベるというのは、相手が気付いているからだ。相手らしい反応なのだ。いや、むしろギャグに気付かない天然さがいいのかもしれない。そう、ここまで、視点転移をすれば、自ずと嫌な気持ちがなくなってくるのだ。ある政治的な命題も、どんどん立場を変えながら、考察していくと、どちらの意見にも、あまり左右されないというか、どちらでもいいような気持ちにさせてくれるのと、一緒の原理なのだ。
これを、し続けることなのだ。そうすると、ギャグという視点も手に入れられて、愉快になるのだ。
「こんな考えている自分って、ギャグだ」となるのだ。真面目は、面白くないのだ。いや、真面目にやっているから面白いのだ。全ての人が、真面目だったら、それはそれでギャグなのだ。
そうすると、全ての人に、自分も内包されて、わけがわからなくなる。という始末だ。これが、ギャグなのだ。
噛み合っていない二人というのは、第三者から見れば、笑いにも深刻にも見えるのだ。
私は、母と父の怒鳴り合いを怒鳴り愛に変えるまで、相当の期間を要した。今となっては、ハッピーなのだ。第三者視点を極めると、どのモノもハッピーだ。
当事者間では、まだまだ私には、視点転移の修行が足りないのだ。これは、まだまだ甘いからだ。感情移入と感情離脱が弱いのだ。双方出来ると、また違った世界が見える。
実は、悟りの名役者であれば、激烈に見える状況の当事者同士でも、笑いに変えることが出来る。つまりお互いわかり合いながら、周囲の人に気付かせるために、痛みがある実演をしているのだ。私は、彼と、怒鳴り愛をした。それは、気付かせるためだった。自分達も、気付くためだった。怒鳴り愛が悪いことばかりだと、勘違いしていたのだ。
これは、また今度にしよう。あまり冗談が過ぎたようだ。落ち着くことだ。魂は、知っているのだから。
やはり、ワンクールの終わりは、笑いに変えられるのだ。それがリピートしても、また笑いに変えられる。輪廻転生とは、そういうものなのだろう。
「私は、哲学なんて意味がない」という人も、「哲学は、意味あるよ」という人もどちらも、内包できたのだった。
やっと哲学を認めてあげることができたとも言える。哲学部に入らなくても、哲学はできるし、普段から人はしているのだ。ここにも、どこどこの場でしかできないという思い込みに勝てるかどうかだ。