自分が純粋フラットになれているかどうか 哲学が意味があるか

自分が純粋フラットになれているかどうかは、やはり家族とうまくいっているかどうかがバロメーターだ
私は、大好きな人ほど、愛している。倒錯したものも、許している。大好きな人ほど、近くにいたくないという気持ちだ。大好きな人ほど、壊したくなるのだ。完璧そうに見える人ほど、魂で、反抗するのだ。より鍛えるために。私は、元東レの佐々木常夫さんの本に、いつも助けられた。とても有り難い。が、私は敢えて、だからこそ、会いたくないのだ。純粋フラットと内外反転を極めると、世間で言われている神のような人だという認識と、自業自得だろという認識が、混ざり混ざるからだ。敢えて言えば、家庭と会社双方大変こなしましたという視点だけではないのだ。このような視点だけを持つと、人は同じようにばかり見てしまう脳の癖があるのだ。
何でもやればいいのではない。人一倍、執着心が強いのだ。それを美化した視点だけでは、足りないのだ。
魔に勝ち続けた人も、魔に負け続けた人も、同じくらい沢山愛を振り撒いているのだという慈悲も愛なのだ。
魔に勝ち続けると、より強い魔が襲うという法則があるのだ。当たり前だが、家族は感謝しているだろうが、第三者視点で言えば、ある意味困るのだ。手を抜くことも、時には、必要なのだ。その事をこれでもかと伝えたかったのかもしれない。
彼は、神であった。数多の困難に打ち勝った愛がとてつもなく強いからだ。貴方には、わからないだろう。魂の声にしたがっていないからだ。魂の声に愛が詰まっている。
家庭では、うまくいっていない場合、どこかの魔に負けている。布団干しを、人の分まで、親切にやるか迷う魔だったり、水やりをやる魔だったりだ。何かしら、魔に負けていると、甘えが出る。
家事手伝いで、親よりしっかり家事をしている子は、どれくらいいるだろうか。
家事手伝いのプロなら、どうするだろうか。私は、たいてい親任せだ。
ごめんなさい。ありがとう。である。
代わりに、このblogを書いている。
会社では、雑用を率先して、芸術的にやる人が、一番伸びる。
掃除機もそうだ。ただ、それは、会社ではなくても、生きている空間で、できるかどうかだ。私は、掃除機を率先してかけていたが、手を抜くようになった。やはり、それは管理者として、不適だった。
どの物事も、循環しているから、意味があるのだ。循環しているものは、より循環するのである。
目標を達成することだけではなくて、深い意味も考えることが大切だ。
そのためには、
忙しすぎる生活は、心のゆとりをなくしているのだ。何かに執着しているから、心のゆとりがなくなるのだ。
見栄っ張りの魔にやられているのだ。
物理的な問題だけではない。
サイズだけの問題でもない。人と繋がる事で見えてくることもある。
自分を見直し続けることだ。
また、人の分までやる魔に勝ち続ければ、人から信用されるのだ。信用は、自分で勝ち取るものだ。やり過ぎると、見栄っ張りの魔に変わっているのだ。そしたら、抑えるのだ。こういうのを、純粋フラットなのだ。
「車拭いといて」という一言で、すぐに、全部しっかりやることなのだ。ちなみに、やらない時もある。が、それは逆の魔のパターンなのだ。
私は、母親を温泉に連れていきたいが、私は、温泉には入らず、違うことをしている。特に異性なので、問題がない。母は、温泉が好きなので、入ってもらう。私は、その温泉の近くの風景や町並みを楽しむのが好きなのだ。別行動が、いつでもできるのが、自立なのだ。
私は母と父が別行動ばかりのように感じていたが、それは私の思い込みだったのだ。
私は子供じみていて、誰かといる時は、一緒にやるのがいいという、思い込みだったのだ。
夫婦生活は、きっちり円満であれば、共通の信仰を持たなくても良いのだ。やはり、私がまだまだ視点転移できてないのだ。
また、共同行動もきっちりやるのが、自立なのだ。支配されないという事は、支配しないということなので、自分の思い通りにいかせられないということだ。それぞれの人生は、同じように見えても、同じところに行っても、違う景色を見ているのだ。いや、見たいのだ。
全て、自由行動とも言える。裏返すと、全て自己責任なのだ。
母に、ギャグを覚えてくれるように、ギャグを気付いてもらうように、努めている。なかなか、難儀なのだ。ギャグをしても、気付いて貰えないと、かなり寂しいのだ。スベった方が、百倍マシなのだ。スベるというのは、相手が気付いているからだ。相手らしい反応なのだ。いや、むしろギャグに気付かない天然さがいいのかもしれない。そう、ここまで、視点転移をすれば、自ずと嫌な気持ちがなくなってくるのだ。ある政治的な命題も、どんどん立場を変えながら、考察していくと、どちらの意見にも、あまり左右されないというか、どちらでもいいような気持ちにさせてくれるのと、一緒の原理なのだ。
これを、し続けることなのだ。そうすると、ギャグという視点も手に入れられて、愉快になるのだ。
「こんな考えている自分って、ギャグだ」となるのだ。真面目は、面白くないのだ。いや、真面目にやっているから面白いのだ。全ての人が、真面目だったら、それはそれでギャグなのだ。
そうすると、全ての人に、自分も内包されて、わけがわからなくなる。という始末だ。これが、ギャグなのだ。
噛み合っていない二人というのは、第三者から見れば、笑いにも深刻にも見えるのだ。
私は、母と父の怒鳴り合いを怒鳴り愛に変えるまで、相当の期間を要した。今となっては、ハッピーなのだ。第三者視点を極めると、どのモノもハッピーだ。
当事者間では、まだまだ私には、視点転移の修行が足りないのだ。これは、まだまだ甘いからだ。感情移入と感情離脱が弱いのだ。双方出来ると、また違った世界が見える。
実は、悟りの名役者であれば、激烈に見える状況の当事者同士でも、笑いに変えることが出来る。つまりお互いわかり合いながら、周囲の人に気付かせるために、痛みがある実演をしているのだ。私は、彼と、怒鳴り愛をした。それは、気付かせるためだった。自分達も、気付くためだった。怒鳴り愛が悪いことばかりだと、勘違いしていたのだ。
これは、また今度にしよう。あまり冗談が過ぎたようだ。落ち着くことだ。魂は、知っているのだから。
やはり、ワンクールの終わりは、笑いに変えられるのだ。それがリピートしても、また笑いに変えられる。輪廻転生とは、そういうものなのだろう。
「私は、哲学なんて意味がない」という人も、「哲学は、意味あるよ」という人もどちらも、内包できたのだった。
やっと哲学を認めてあげることができたとも言える。哲学部に入らなくても、哲学はできるし、普段から人はしているのだ。ここにも、どこどこの場でしかできないという思い込みに勝てるかどうかだ。