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拒食症

私は、拒食症になった事がなかった。拒食症の人というのは、どういう気持ちなのだろうか。家庭で、うちの子は食べないというテーマがあったとしよう。やはり、何かメッセージを含んでいるのだ。本人は、「食べるとバカにされるから」「痩せてる方がモテるから」「食べるよりしたいことがあるから」「食べる気がしないから」、、、等が考えられる。食べないという意志の発露は、家族へのアンチテーゼかもしれない。奇怪な行動というのは、本人が取りたくて取っているケースもあるが、大方は、そのつもりがないのだ。私は、母に激昂するが、それを俯瞰している自分とこの先どうなるんだろうと思っている自分としっかりこの役をやるぞという自分とわけもわからなくなっている自分というものが、存在している。フロイト心理学で言う、理性と性の葛藤なのかもしれない。が、あまりにも、俯瞰しているのだ。これは、教育的見地から、見出だされたものなのだ。役を演じているのだなと、思うのだ。が、基本的に人間は、この役を演じているという、脳のブロックを外せないのだ。私は、外した。そうすると、こういう状況にさせたいのだなと、俯瞰する自分と予測する自分があるのだ。だから、喧嘩があると、「あー、ベスト」なのだなと、思うのだ。役に填まっている事に気付いてないのだなと思う。が、それは、周りにはわからないのだ。私の父も、役にはまっていたのだろう。お互い様なのだ。神に逆らうと痛い目見るのだ。私は、それがうんざりなのだ。高みの見物というのは、あるのだ。そして、神と仏は、人間を神と仏にしたいのだ。ただ、昔と現代版では、神と仏になれる、現代版の悟りは違うのだ。つまり、生活環境が違えば、在家や出家という概念が、当たり前の時代と、現代では、神と仏になる修めるべき大量のモノが違うのだ。同じインスピレーションであることには、違いないのだ。ここで言う、神と仏とは、システム自体ではない。人間の進化した形態の事だ。相当頑張ってくれているのだ。霊能者というのは、無意識世界の詰まりが見える人なのだ。だから、「毎日、花に水をあげなさい。そうすると、子供が元気になるよ」といった、唯物論の因果関係では、わからないものなのだ。こじつければ、毎日花に水をあげる精神性が、子供に愛情を注ぐのに繋がるとも、言えるのだ。素直な人は、自分の内在神からのメッセージを行っているので、霊能者は、不要なのだ。素直と幸せというのは、因果関係がやはりあるようだ。「そうすると、困ってない」となるのだ。よって、宗教団体に頼る必要もなくなるのだ。