verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

飴と鞭 教育

人間に対しては、飴と鞭が必要なのだ。
例えば、「ごはん、食べたら、図書館で勉強しなさい。さもなくば、ご飯は、あげません」なのだ。
最近は、お仕置きをすることを悪いと思わせる風潮がある。
ご飯にも、エネルギーがある。よって、ご飯を食べたら、必然的に、何かを提供しなければならないのだ。そうしないと、体に嫌なモノが残る。
この事が、わかっている人が増えてほしいと思う。
ご飯にごめんなさい。作ってくれた人にありがとう。なのだ。嫌なことと好きなことは、引っくるめるのだ。
また、自分の方が、頑張っているというのは、思い上がりに過ぎないのだ。全ての方面から見れば、変わらないのだ。例えば、私の方が、母より頑張って、朝早く起きていたとしよう。だからといって、私が、優れているというわけではないのだ。一場面だけ切り取りとって、アイデンティティの優位性を見たい脳の癖なのだ。誰か比較しても、仕方がないことなのだ。
これは、説明が難しいが、要は、「頑張っている」人は、他の事を、「怠けている」のだ。頑張っている人は、周囲の人を抑圧しているのだ。怠けている人は、周囲の人を安心させているのだ。
ここにも、宇宙の動きと、フラクタルな関係だ。
これは、アスリートでも、同じなのだ。
役割分担の違いなのだ。役割が違う人の意見と、自分の意見、どちらが優れているかというのは、勘違いなのだ。
人間土台できることは、そんなに多くないのだ。
が、人間の現象世界では、工夫次第で、怠けていないと見せ付けることが出来るのだ。ただ、神は、全てお見通しなのだ。自分が、少しずつ変わっていけば、いいのだ。目の前の人と離れられないのは、課題が残っているからだ。