読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

好きなもの 内外反転の例

自分が、大好きなものを捨てられたら、どう思うだろうか。
私の母は、自分勝手に人のものを、差別して、捨てる悪い癖がある。これは、一見、行き過ぎた物の処分欲求かもしれない。
ただ、実は、このケースも、どちらが悪いかは、わからないのだ。大事なものを、私が、あまり見ていないから、起こったとも考えられる。
観ていないものは、処分するに限るのだ。これは、万物がエネルギーを持っていて、意識してほしいという性質があるからだ。ただ、好きなものは、たまに見てあげることだ。これが、トラブルの元なのだ。新しい人が、家に入ってくると、自然に循環が起こる。これは、ありがたい事なのだ。ディズニーの美女と野獣の、あの合わさったカップのように、見てくれると、嬉しがるのだ。だから、嫌なことが起こるというのは、お互い悪いのだ。母の視点で言えば、子供のモノを、勝手に処分しようという魔に負けて、子供と相談するのを、めんどくさがる魔に負けているのだ。必ず、薄々一瞬気付いているのだ。私の観点で言えば、モノをしっかり意識しない悪い癖があるのだ。だから、ごめんなさい。ありがとう。と伝えたいのだ。
そして、好きなものも、やはり内外反転がある。たまに、やつけられる事件が起こる。それを機会に今一度見直すのだ。「怠けたい、怠けたい」ばかり、想念を送るのではないのだ。私の母は、雑多なことを、新しくするのに、長けている。執着し過ぎなのだ。なくても、構わないというのを、知るべきなのだ。私は、だいぶカルマが解消できたが、まだまだたまっている。呼吸法というのも、潜在意識活用法だ。人は、オリジナリティを出していると思うと、嬉しくてやる気になるので、神は黙認しているのだ。新しく自分を作り直す時期なのだ。私は、あまり人を非難したくないから、このblogを書くのだった。整理整頓も悪くない。好きなものを批判されるのは、仕方がないのだ。世界中に意識を向けなければいけないのが、人間の役目のひとつなのだ。それを、人は覚悟と呼ぶのだろうか。何事も、自分が蒔いた種なのだ。それは、良いこととされている常識だとしても。私の母は、ちょこまか動き過ぎる傾向にある、だから、もう一人の人間の手が止まりすぎる傾向にあるのだ。人間は、新しくし続ける運命なのだ。機能不全家族というのは、同じことを、永遠に繰り返している家族の事を言うのだ。自分が悪い行いをしていると、微塵も思わないのだ。真実と、信念を、ごっちゃにすると、わからなくなる。つまり、私もそうだが、真実を追究すると、ある一点で歯止めをかけたくなるのだ。教育観点に関して、絶対的正解というのは、あるともないとも言えるのだ。スパルタか、ユトリかは、どちらも取りうるのだ。私は一瞬の気の緩みも許さないというスパルタを指導し続けたこともあるが、ほぼ全て気を緩めて、一瞬だけ魔に勝ってもらえればいいという指導もし続けた。勿論、私としては、かなりハイペースの方が、楽しいのだが、それは、自分よがりになってしまう。そういうこそ、ごめんなさいと思いたい。