verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

悟りの数 諺の数

悟りの数
どれくらいだろうか。

計算してみた。
一日1440分×365日×40才=21024000
分である。そして、30分で一回のペースで気付きを得たとしたら、700800個である。約70万個である。
480分(八時間)で一個のペースの場合、43800個である。約4万ちょっとである。「故事・俗信ことわざ大辞典」(小学館)には、43,000項目らしいので、諺の数と同じくらいである。が、その諺の項目が、自分の体験の気付きの中であったかどうかである。
知識として持っている気付きと実体験がある気付きは種類が違う。基本的には、実体験がある気付きに絞ってみよう。年長者には、それだけの悟りがあるようだ。やはり、項目と、体験がどれくらいあったのかチェックできないと、どれくらいの悟りかはわからないかもしれない。
悟りには、重要な悟りというものは、あるのだろうか?
これは、どうだろうか。
「窮鼠猫噛む」と「弘法にも筆の誤り」の優劣はあるのだろうか。
やはり、4万というのは、置いといて、巷に、残っている諺というのは、より人生の中で、頻度多く思うものなのかもしれない。
また、例えば、「動くと良い」と「話すと良い」「聞くと良い」というのも、どれが上位の悟りなのか。
「動くと良い」「話すといい」「聞くと良い」の、「動いて、話して、聞くと良い」のような何か複合的なインスピレーションのような気がする。
悟りの境地というのが、大切なのかもしれない。悟りというのは、周囲の人から言われることなのだ。

仏教でいう究極の悟りとは? / Q&Aダルマの教え、説法内容について / QA // 上祐史浩オフィシャルサイト

http://www.joyu.jp/faq/cat207/0060.html

仏教でいう究極の悟りとは? / Q&Aダルマの教え、説法内容について / QA // 上祐史浩オフィシャルサイト

人生に意味は無かった。この世は幻であるという考えのまとめ。仏教の悟りの世界へようこそ。 - NAVER まとめ
https://matome.naver.jp/m/odai/2136152587952089501

https://matome.naver.jp/m/odai/2136152587952089501

無常の仏教的な意味合いは、体験と研究で、しっかりと、イメージしないと、誤解されるなのではないかと思った。
知識として持っている気付きと、体験としての気付きが合わさって、ある悟りになる。どちらか片方でも、足りないのだ。足りないと、誤解するのだ。
10代の子が、「この世は、無常だから」といって、どれだけ説得力があるだろうか。それは、体験が足りないので、パワーが発動しないのだ。私は、よく上っ面で頭でっかちだったので、よくわかる。また、生徒でも、そういう子は、いる。たまに、大人でも、ドキッとするハイブリッドな意見を言う子がいる。その子は、苦労してるのだ。
周りが納得してないということは、悟ってないのだ。相手が納得していないというのは、膨大な無意識と極小の意識で、無意識領域からの働きかけがあるので、そのような事態になるのだ。簡単に言えば、準備とパワーとタイミングが足りないのだ。
悟りは、周囲の人も頷かなければ、頭でっかちなのだ。私は、より体験と研究を続けたい。