表現されなかった思いとは

表現されなかった、嫌な思いとは、どうなるのだろうか。
何というか、虫が好かない気持ちだ。
周囲の人に、誰かに話すというのは、ある。
ただ、本人に吐き出して、火に油というのは、あるのだ。
これも、ごめんなさいありがとう、愛のエネルギー法なのだ。
引っ掛かりそうになった時ほど、これが利くのだ。まず、ごめんなさいと思う。そうすると、何かしら謝る事や、感謝する事や、良い方法が浮かぶのだ。最初に怒ったのが、チンケなことが、どうしてそうなったのか、どの観念なのか、と理性で見ることも大切だ。
この自分の負の感情と、戦うことだ。
勿論、のっぴきならない事情がある場合は、素直に言うことだ。
が、そうでもない場合のケースの方が、多い。
「あれ?この前は、素直だったのに、あれは嘘なの?」となりかねない。
ただ、どの観念なのかの確認はとても大事で、何でもかんでも従えという事ではない。
やはり、魔というのは、対処できると、「あ、ばれた?」という悪戯っ子なのだ。対処できないと、悪童に見えるのだ。そういうものだ。
金は、物質なので、整理整頓が必要だ。
が、ほぼ全ては、気持ちの問題なのだ。
この面で、おかしい。と思うことだ。
一番深い層まで行けていれば、何かしら謝るポイントというのは、情報がなくても、浮かんでくるものだ。つまり、相手が謝らないという事は、そのところまで、精神領域がいけてないことの裏返しなのだ。ただ、忙しいとそんな事も言ってられない。やはり、忙しいというのは、心を亡くすのだ。それは、現代社会では、仕方ないことだ。私がもっと成長してなくて、フォロワーを増やせず、ごめんなさい。と思えるかどうかだ。
こう考えると、この世は、魔に勝つ鍛練の場だと思えるのだ。斎藤一人さんの「この世に生まれた人は、みんな、やり直し組」や、キリスト教の「サタンに勝て」など、多くの関連した想念体を、引っ張り出せるのだ。これも、脳の仕組みなのだ。ただ、勿論違う想念体も引っ張り出せるのだ。例えば、「アイデンティティの戦いだ」や「確率的に、偶然起こっただけ」というものだ。偶然という視点も、時には、自分を助けてくれるのだ。