verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

なぜ、1つの真実や真理に固定されないのか?

なぜ、1つの真理や真実に固定されないのか。一つに固定されたら、嬉しいと思う時もある。なかなか尻尾を掴めないからだ。科学的論証と照らし合わせると、これが真理で、絶対だと思うこともあるが、これもまた反証する余地は残されている。
ここは、とても奥深いものだ。
では、1つの真実に固定された社会は、どうなのだろうか。リアルに想像すると、怖くなるだろう。
「輪廻転生がない」というのが、1つの真実だとしよう。そうすると、死ぬのがとても怖くなる。また、殺人が、厳罰に進むだろう。今までの仏教的死世観が、総崩れする。そうすると、生存本能が、より増していく。「死んだら終わり、死んだらアウト、長生きしないと」となる。自分が、一番となる。他者への配慮が減る。
逆に「輪廻転生がある」のが1つの真実だとしよう。そうすると、死ぬのは怖くなくなる。逆に死のうとする人も現れる。私も以前、そうだった。殺人が、軽罰化するだろう。また、戦争も起きやすくなる。また、変われば良いとなる。
この曖昧さがとても、機能する。曖昧さが世界を救っている。このような側面がある。
真実が固定された社会とは、どうなのだろうか。果たして、それが良い社会なのだろうか。私には、退屈に思える。色々な可能性があるからこそ、楽しいのではないだろうか。心踊る部分が残されているのではないか。未確認生物というのも、未確認だから、ワクワクするのではないだろうか。

500年前では、この世が、仮想現実と捉える人は少なかったと思われる。が、現在では、徐々に増えてきている。この世が、現実だという「真実のようなもの」も崩れ去ろうとしている。四次元が真実というのも、崩れ去ろうとしている。
人類史とは、途中から、ある臨界点に達すると、ある真実が提示される。そして、また時代が進むと、またある真実が提示される。という繰り返しなのだろう。

つまり、真実が一つになると、うまく社会が機能しない面があるのだ。

では、逆に、真実が固定されて、うまく社会が機能する面はどうだろうか。
天動説から地動説に変わったので、行き過ぎた神志向を、逆転させたのではないか。それが、大衆洗脳と密接に絡み合っていたからだろう。我々の見えないところで、大きな存在が、動いているように見える。そして、純粋フラットの仕組みが流れている。
そしてここでも、「観念を、自分で決めている」という法則がある。
それが一番強い意識なのだ、だから、それが生きる原動力とも言える。

仏教講義、4.死んだらどうなるか (1)死んだらどうなるか (No18)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi18.html

仏教講義、4.死んだらどうなるか (1)死んだらどうなるか (No18)

「死んだら無になる」では、宗教的組織として、まとまれないのである。いや、信じたくないのだ。なぜ、仏陀が死を超克できたかというと、苦行のおかげなのだ。「苦行しても悟れない」というのは、たくさんの苦行経験があるから、そのように悟ったのだ。当たり前だが、最初から苦行しないで、苦行なんて意味がないと言っている人に、どれほど説得力があるだろうか。子供の戯れ言に聞こえるだろう。つまり、逆説的に言えば、苦行で、仏陀は悟ったのだ。練習してない人が、練習しても意味がないと、言っても、どれほどの説得力があるだろうか。仏陀は、苦行により、脳の意識を変えて、世界と溶け込めるようになったのだ。例えば、一般人でも、マイナスイオンが生い茂っている所では、体で、何か感じるであろう。物質と溶け込んだのだ。そして、仏陀は、更に深い層に溶け込んだのだろう。そうすると、肉体という物質と、更に深い層があるが、痛みがなくなる感覚になる。その感覚があれば、気にならなくなるのだ。それ以外は、ないのだ。

自分自身で、どのように生きているかを選択しているのだ。