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なぜ、1つの真実や真理に固定されないのか?

なぜ、1つの真理や真実に固定されないのか。一つに固定されたら、嬉しいと思う時もある。なかなか尻尾を掴めないからだ。科学的論証と照らし合わせると、これが真理で、絶対だと思うこともあるが、これもまた反証する余地は残されている。
ここは、とても奥深いものだ。
では、1つの真実に固定された社会は、どうなのだろうか。リアルに想像すると、怖くなるだろう。
「輪廻転生がない」というのが、1つの真実だとしよう。そうすると、死ぬのがとても怖くなる。また、殺人が、厳罰に進むだろう。今までの仏教的死世観が、総崩れする。そうすると、生存本能が、より増していく。「死んだら終わり、死んだらアウト、長生きしないと」となる。自分が、一番となる。他者への配慮が減る。
逆に「輪廻転生がある」のが1つの真実だとしよう。そうすると、死ぬのは怖くなくなる。逆に死のうとする人も現れる。私も以前、そうだった。殺人が、軽罰化するだろう。また、戦争も起きやすくなる。また、変われば良いとなる。
この曖昧さがとても、機能する。曖昧さが世界を救っている。このような側面がある。
真実が固定された社会とは、どうなのだろうか。果たして、それが良い社会なのだろうか。私には、退屈に思える。色々な可能性があるからこそ、楽しいのではないだろうか。心踊る部分が残されているのではないか。未確認生物というのも、未確認だから、ワクワクするのではないだろうか。

500年前では、この世が、仮想現実と捉える人は少なかったと思われる。が、現在では、徐々に増えてきている。この世が、現実だという「真実のようなもの」も崩れ去ろうとしている。四次元が真実というのも、崩れ去ろうとしている。
人類史とは、途中から、ある臨界点に達すると、ある真実が提示される。そして、また時代が進むと、またある真実が提示される。という繰り返しなのだろう。

つまり、真実が一つになると、うまく社会が機能しない面があるのだ。

では、逆に、真実が固定されて、うまく社会が機能する面はどうだろうか。
天動説から地動説に変わったので、行き過ぎた神志向を、逆転させたのではないか。それが、大衆洗脳と密接に絡み合っていたからだろう。我々の見えないところで、大きな存在が、動いているように見える。そして、純粋フラットの仕組みが流れている。
そしてここでも、「観念を、自分で決めている」という法則がある。
それが一番強い意識なのだ、だから、それが生きる原動力とも言える。

仏教講義、4.死んだらどうなるか (1)死んだらどうなるか (No18)
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi18.html

仏教講義、4.死んだらどうなるか (1)死んだらどうなるか (No18)

「死んだら無になる」では、宗教的組織として、まとまれないのである。いや、信じたくないのだ。なぜ、仏陀が死を超克できたかというと、苦行のおかげなのだ。「苦行しても悟れない」というのは、たくさんの苦行経験があるから、そのように悟ったのだ。当たり前だが、最初から苦行しないで、苦行なんて意味がないと言っている人に、どれほど説得力があるだろうか。子供の戯れ言に聞こえるだろう。つまり、逆説的に言えば、苦行で、仏陀は悟ったのだ。練習してない人が、練習しても意味がないと、言っても、どれほどの説得力があるだろうか。仏陀は、苦行により、脳の意識を変えて、世界と溶け込めるようになったのだ。例えば、一般人でも、マイナスイオンが生い茂っている所では、体で、何か感じるであろう。物質と溶け込んだのだ。そして、仏陀は、更に深い層に溶け込んだのだろう。そうすると、肉体という物質と、更に深い層があるが、痛みがなくなる感覚になる。その感覚があれば、気にならなくなるのだ。それ以外は、ないのだ。

自分自身で、どのように生きているかを選択しているのだ。