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自由と表現と代償

表現の自由と表現の代償がある。
自由と引き換えに表現したモノに何の価値があるだろうか。
いや、出しきりたいと思って出したモノだが、価値があるのだろうか。
自分が表現したものによって、見た人に、プラスとマイナスのイメージが作られる。
アナウンサーの方が、blogで、過激発言をした事で、問題になったりする。トランプさんが、過激発言をして、大統領になる。アメリカと日本では、文化が違う。本音と建前がある。受け方が違う。
本音を言った人が正義か、建前を言った人が正義か。
表現の危険性というものがあるから、やはり怖さがあるのだ。だから、表現を隠喩的にする場合があるのと、わかりづらく比喩にする。比喩なら、隠喩なら、逃げ道が残っているからだ。何かのメッセージを伝えたいと思って、手段として、アニメや漫画を使ったとしよう。何か炎上しても、アニメだから、漫画だからと、いうものにもできる。ただ、リアルの場合、そうもいかない。あえて、時事から、離して、後で書くという手法もある。タイムリーに合わせていくのが、主流だ。だが、それもまた問題になる。タイムリーだと、表現された事に、敵対してる考え方の人が、怒りやすいのだ。だから、時期をズラして書く。少人数に向けて書く。トーンを落ち着かせると、平凡なものになる。この辺りのさじ加減が、微妙だ。ある特定の人に言っていると勘違いされるのだ。不特定多数の人に言っているのだが、引き合いに出された人が、渦中になる。私は、ただ本質を、本音を探りたいだけだ。必ず、表現したものは、その人の、その時の考え方が、露出する。
許可を取っているのかという事にも繋がる。
だんだんと、表現が率直にしていくと、表現者と受信者によって、ある種の心地よい場が作られる。より率直にしてくると、合わない受信者と合う受信者に分かれる。エスカレートして、更に二極化していく。一方で、中庸は、平凡でもあるのだ。本人は、中庸のつもりでも、何かに偏るのだ。中庸は、中間を取るというわけではないが、そのように思われる。発信者と受信者で捉え方が変わるからだ。膨大な価値観、どちらに片寄っているかにより、変わっていく。
この表現で、この稚拙さ、巧みさ、つまり巧拙さ、精緻さというものもある。
それぞれが、一点業務で取り組むのだ。