verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

自由と表現と代償

表現の自由と表現の代償がある。
自由と引き換えに表現したモノに何の価値があるだろうか。
いや、出しきりたいと思って出したモノだが、価値があるのだろうか。
自分が表現したものによって、見た人に、プラスとマイナスのイメージが作られる。
アナウンサーの方が、blogで、過激発言をした事で、問題になったりする。トランプさんが、過激発言をして、大統領になる。アメリカと日本では、文化が違う。本音と建前がある。受け方が違う。
本音を言った人が正義か、建前を言った人が正義か。
表現の危険性というものがあるから、やはり怖さがあるのだ。だから、表現を隠喩的にする場合があるのと、わかりづらく比喩にする。比喩なら、隠喩なら、逃げ道が残っているからだ。何かのメッセージを伝えたいと思って、手段として、アニメや漫画を使ったとしよう。何か炎上しても、アニメだから、漫画だからと、いうものにもできる。ただ、リアルの場合、そうもいかない。あえて、時事から、離して、後で書くという手法もある。タイムリーに合わせていくのが、主流だ。だが、それもまた問題になる。タイムリーだと、表現された事に、敵対してる考え方の人が、怒りやすいのだ。だから、時期をズラして書く。少人数に向けて書く。トーンを落ち着かせると、平凡なものになる。この辺りのさじ加減が、微妙だ。ある特定の人に言っていると勘違いされるのだ。不特定多数の人に言っているのだが、引き合いに出された人が、渦中になる。私は、ただ本質を、本音を探りたいだけだ。必ず、表現したものは、その人の、その時の考え方が、露出する。
許可を取っているのかという事にも繋がる。
だんだんと、表現が率直にしていくと、表現者と受信者によって、ある種の心地よい場が作られる。より率直にしてくると、合わない受信者と合う受信者に分かれる。エスカレートして、更に二極化していく。一方で、中庸は、平凡でもあるのだ。本人は、中庸のつもりでも、何かに偏るのだ。中庸は、中間を取るというわけではないが、そのように思われる。発信者と受信者で捉え方が変わるからだ。膨大な価値観、どちらに片寄っているかにより、変わっていく。
この表現で、この稚拙さ、巧みさ、つまり巧拙さ、精緻さというものもある。
それぞれが、一点業務で取り組むのだ。