全ての人の嘘

これは、あまり書きたくなかった。
全ての人が、自分が言っていることは、嘘なのだ。いや、どこかに嘘が含まれているのだ。
自分がそのように思いたい
だけだ。
どの宗教家も、どの人格者も、どの犯罪者も、そうなのだと私は、<思って>いる。この<思う>は、謙虚な余白のためだ。
自分の本音中の本音はさらけ出さない。
いや、さらけ出せないようにブロックされている。

宗教家の人は、真実のように、言うので、ある意味、たちが悪い。本音中の本音は表現しないで、口うまく、様々な事象を引き合いに出している。その人より検証ができないと、コロッと、それは正しいとなる。宗教家というのは、庶民が思っているより、圧倒的に膨大な反芻もしているのである。だから、穴がないように、思わされている。
九牛の一毛というのは、あるのである。
重箱の隅をたたくのは、仏教でも、怒りとされている。ただ、私は、なぜか、無性に気になってしまった。だからこそ、この<真実>にたどり着いた。
圧倒的に時間があったからだ。同じくらい反芻できるかどうかである。
仏陀もキリストも同じだったと確信がある。
ただ、信じるか信じないかは、どちらでもいい。むしろ、信じなくて良い。
百パーセント自分の観念というものだ。
一度自分が決めたこと、多くの人に出したものを、覆せないのである。自分が負けたとも思いたくない。自分よりも、更新されるのは嫌なのだ。私は、負けて良い、降参である。
覆す機会もまた与えられている。どちらも、あるのである。人は死ぬようになっている。この世の仕組み上、人間の仕組み上、仕方ないというか、真っ当なのである。その人よりも、反芻できる時間があるかどうかである。ここだけは、固定したいというのが、あるのである。
折角私には、怠けという特性があるのに、それを放棄してまで、群雄割拠の戦場に出る必要があるのかどうか、であるか。悟りというのは、同じくらい気付いていけば、悟れるのだ。これは、技術とは違う。いや、技術も、同じくらい磨けば、磨けるとも、言える。ここにも、同経験同境地の法則がある。私は、法則を知りたかったのか、それとも法則を活かした結果が欲しかったのか、何とも言えないものだ。やればできるかどうか、知りたかっただけだろう。「やればできる」。そして、今どうするかという舵取りだ。自分が、高くなるように、高く飼ってもらえるように、生きたいのが、人間の性だ。この世は逆だ、ギャグだ。九牛の一毛に拘らなくても良い。
宗教をどのように、自分で捉えるかは、自分次第である。

宗教家の深見東州氏 コンサートは観客笑いっぱなしで超満員│NEWSポストセブン

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