verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

全ての人の嘘

これは、あまり書きたくなかった。
全ての人が、自分が言っていることは、嘘なのだ。いや、どこかに嘘が含まれているのだ。
自分がそのように思いたい
だけだ。
どの宗教家も、どの人格者も、どの犯罪者も、そうなのだと私は、<思って>いる。この<思う>は、謙虚な余白のためだ。
自分の本音中の本音はさらけ出さない。
いや、さらけ出せないようにブロックされている。

宗教家の人は、真実のように、言うので、ある意味、たちが悪い。本音中の本音は表現しないで、口うまく、様々な事象を引き合いに出している。その人より検証ができないと、コロッと、それは正しいとなる。宗教家というのは、庶民が思っているより、圧倒的に膨大な反芻もしているのである。だから、穴がないように、思わされている。
九牛の一毛というのは、あるのである。
重箱の隅をたたくのは、仏教でも、怒りとされている。ただ、私は、なぜか、無性に気になってしまった。だからこそ、この<真実>にたどり着いた。
圧倒的に時間があったからだ。同じくらい反芻できるかどうかである。
仏陀もキリストも同じだったと確信がある。
ただ、信じるか信じないかは、どちらでもいい。むしろ、信じなくて良い。
百パーセント自分の観念というものだ。
一度自分が決めたこと、多くの人に出したものを、覆せないのである。自分が負けたとも思いたくない。自分よりも、更新されるのは嫌なのだ。私は、負けて良い、降参である。
覆す機会もまた与えられている。どちらも、あるのである。人は死ぬようになっている。この世の仕組み上、人間の仕組み上、仕方ないというか、真っ当なのである。その人よりも、反芻できる時間があるかどうかである。ここだけは、固定したいというのが、あるのである。
折角私には、怠けという特性があるのに、それを放棄してまで、群雄割拠の戦場に出る必要があるのかどうか、であるか。悟りというのは、同じくらい気付いていけば、悟れるのだ。これは、技術とは違う。いや、技術も、同じくらい磨けば、磨けるとも、言える。ここにも、同経験同境地の法則がある。私は、法則を知りたかったのか、それとも法則を活かした結果が欲しかったのか、何とも言えないものだ。やればできるかどうか、知りたかっただけだろう。「やればできる」。そして、今どうするかという舵取りだ。自分が、高くなるように、高く飼ってもらえるように、生きたいのが、人間の性だ。この世は逆だ、ギャグだ。九牛の一毛に拘らなくても良い。
宗教をどのように、自分で捉えるかは、自分次第である。

宗教家の深見東州氏 コンサートは観客笑いっぱなしで超満員│NEWSポストセブン

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