悟り 条件

悟りは、誰でも、条件や場所に左右されずに、わかるものという法則がある。
「イギリスだから、わかる」「あの宗教団体だから、わかる」「あの人だから、わかる」というものでもない。いや、追い求める人には、わかる。聖書にも、そのような記述がある。
マタイ福音書7:7~11

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」



私は、過去生で悟れなかったのだと、思う。だからこそ、悟りたいと思うのかもしれない。

  • 私は、キリスト教の団体にいた時があった。しきりに、核心への道は、イエスキリストのみしかないと唱えていた。が、私は、そこは違うと思っていた。なぜなら、一生涯に、一度もキリスト教に触れられない人が、各国にいるからだ。だから、それが変だと思っていた、いやそれもあるのなと、いったり来たりだったが、やはり腑に落ちなかった。完璧主義なのだ。私は、腑に落ちないことが大嫌いだ。だから、色々な角度で考えてみる。が、やはりそういうわけではないのだ。つまり、自分の心が投影してるのだ。

俺が神様なら、そんな条件に左右されるのは、嫌だからだ。
余談であるが、この記事で、私というのではなくて、俺というものが出た場合は、昔の自我なのだ。この場合、俺という存在が、意見しているのである。俺というのは、あまり成熟してない昔の普通の人格なのだ。俺は、俺自身をひどく憎んだ。性の虐待を与えると、多重人格になるというレベルの恨み方だ。ぼこぼこにした。
なので、他の立派な人格が出現した。だから、言っていることがあべこべなのだ。というのは、ギャグなのだ。私は、合わせられるのだ。

どの人も、満足してほしい。そして、あわよくば、心が平穏でありたい。 心が平穏にあるためには、顕在意識層の吐き出しをすませ、愛のエネルギーを送ることだ。自分の観念と違うものに、遭遇した場合に、人はストレスを受ける。このストレスは、顕在意識に、個人的無意識に、集合的無意識に、ダメージを受ける。ので、それを浄化してあげる必要がある。 ストレスを受けているのに、受けていないと、思うと、疲れてしまう。