verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

悟り 条件

悟りは、誰でも、条件や場所に左右されずに、わかるものという法則がある。
「イギリスだから、わかる」「あの宗教団体だから、わかる」「あの人だから、わかる」というものでもない。いや、追い求める人には、わかる。聖書にも、そのような記述がある。
マタイ福音書7:7~11

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」



私は、過去生で悟れなかったのだと、思う。だからこそ、悟りたいと思うのかもしれない。

  • 私は、キリスト教の団体にいた時があった。しきりに、核心への道は、イエスキリストのみしかないと唱えていた。が、私は、そこは違うと思っていた。なぜなら、一生涯に、一度もキリスト教に触れられない人が、各国にいるからだ。だから、それが変だと思っていた、いやそれもあるのなと、いったり来たりだったが、やはり腑に落ちなかった。完璧主義なのだ。私は、腑に落ちないことが大嫌いだ。だから、色々な角度で考えてみる。が、やはりそういうわけではないのだ。つまり、自分の心が投影してるのだ。

俺が神様なら、そんな条件に左右されるのは、嫌だからだ。
余談であるが、この記事で、私というのではなくて、俺というものが出た場合は、昔の自我なのだ。この場合、俺という存在が、意見しているのである。俺というのは、あまり成熟してない昔の普通の人格なのだ。俺は、俺自身をひどく憎んだ。性の虐待を与えると、多重人格になるというレベルの恨み方だ。ぼこぼこにした。
なので、他の立派な人格が出現した。だから、言っていることがあべこべなのだ。というのは、ギャグなのだ。私は、合わせられるのだ。

どの人も、満足してほしい。そして、あわよくば、心が平穏でありたい。 心が平穏にあるためには、顕在意識層の吐き出しをすませ、愛のエネルギーを送ることだ。自分の観念と違うものに、遭遇した場合に、人はストレスを受ける。このストレスは、顕在意識に、個人的無意識に、集合的無意識に、ダメージを受ける。ので、それを浄化してあげる必要がある。 ストレスを受けているのに、受けていないと、思うと、疲れてしまう。
追記
悟りに関しては、また違う記事で書こう。だがどこまでいっても、悟りは続くのだと考えられる。