verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

人間の判断基準

多くの判断基準を、人は持っている。
一番大きい判断基準は、生きるか死ぬかである。私は、二年余りも長く間、どちらとも言えない状態で、右往左往していた。そのお陰で、これが一番大きい判断基準である事に気がついた。 生きたいから、生活がある。生活があるから、張りが出る。
誰でも、鬱病にかかったことがない人は、生きるという判断基準で、動いている。生きるというのは、自己防衛が働く。死ぬというのは、精神的もしくは、肉体的自傷行為が続く。
生きると決めれば、楽になれるのに、なかなか決めなかった。
死ぬと決めれば、どんどん深みにはまっていった。だから、生きるという判断基準を持つから、人は自己防衛して、自己責任になる。堕ちるところまでいくと、人は反転する。死ぬところまで行く人もいる。私は、地獄の怖さを知った。
生きると決めた。そうすると、楽になった。いや、まだどちらの想念もある。
そのパラダイムが、一番自分の人生を決定付ける。神を信じるか、信じないかのパラダイムより、強く作用するのかもしれない。
私は、27歳で有神論者になった。それまで、検証ばかりで、100%は信じられなかった。だが、信じた。そうすると、そのパラダイムで、人生が動いていくのを気付いた。そうやって、人間はパラダイムを作って、動いている。パラダイムに気付くには、一度捨てなければ、気づけない。捨てる勇気もあれば、拾う勇気もある。
「生きたい」というパラダイムは、人生にあっていい事に気が付いた。他の執着を捨てれば良い。人生なのだから、「生きたい」は、あっていい。細胞は生きたがっている。アルコールに執着するのと、生きたいに、執着するのは、違う。ただ、「生きたい」に固執すると、見えない世界もあるということだ。
私は、生きていることを許そうと思う。「生きたい」と思っていい。

自分の判断基準が絶対正しい。人間の判断基準は絶対正しい。 | HITOTSU学大好き!zakkyのブログ

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