verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

なぜ意見がコロコロ変わるのか。 多重人格

多重人格のメリット、デメリットがある。
多重人格的能力のメリットとしては、主人格の意識をほんの一ミリ程度にして、他の人格の能力が使えることだ。主人格は運転が下手でも、他の人格が入れば、プロのような運転が出来る。主人格意識を全部落として、勝手に喋るのは、まだ会得してない。他の人格に話させても、かすかに意識はあるからだ。この人格というのは、便宜上だ。これを霊媒という人もいる。試験を、全部他人格がやった場合の合否は、どうなるのだろうか。基本的に同じ肉体なら、同じ人というのが、通例だから、合格は合格であると思われる。
昔の私のイメージを持っている人にとっては、主人格であたる方が、都合が良い。だから、自我はなくなるわけではない。相手が認めてくれた場合は、この主人格以外の能力を使える。ただ、タイミングはこちらで指定するのは無理である。というより、ベストなタイミングで、他人格が現れる。現れたことに気づかない場合も多い。

私は、なぜか色々コロコロ言うことが変わる。それは、周囲の人の、視点転移を促し、悟りを深めて貰うためである。
ただ、そんなこと言うと、人に反発されるから、言わない。主人格はある。が、他の人格に譲るべきときは、譲る。周囲に対して、悟りのベストな状況を作るために、行っている。
激怒する人格。丁寧な愛で接する人格。色々な自分がいる。
更に言えば、私は脳で意識して、そういう事をしてるわけじゃない。自分でコントロールしているわけじゃない。魂がコロコロ変わっているだけだ。ビリーミリガンさんのような多重人格である。
普通は、人は、「あの人はこうだ」「この人はこうだ」と様々な人に接する中で、悟りの視点を獲得していく。個人は、その個人の意識した想念帯に貯まったものに、アクセスしてるだけだ。脳で、自我の想然帯にアクセスしてるから、同じ結果が出る。これを外してみた。
身嗜みに関して、髪型を整えない自分でもいいということを伝えたいだけだ。正直、身嗜みを整えたほうが、当たり前に好かれる。だが、この世に絶対はない。だから、整えている自分であっても、整えてない他人であってもいい。だから、整えている人は、整えていない人を批判するのではなく、整えない視点を獲得して、整えてない人を内包した言い方をしてほしいだけだ。それで、世界の負の連鎖が、一つ減るだけだ。
思春期は、よく整えていた。異性を意識してたからだろう。ただ、整えなくなった。そんな状況じゃなく、もっと大事なことがあったからだ。ただ、これからは、整えていこうと思う。整えてない人に対して、「あー、俺もそういう時期あった」と伝えたいからだ。「整えなきゃ」だけではない。整えている自分を認めたい、整えているのが好きなだけだ。そういう謙虚さが必要だ。


多重人格にみられる人格のタイプと傾向の分類
http://www.geocities.jp/new_psych/jinkaku.htm

多重人格にみられる人格のタイプと傾向の分類


RAPT | 悪魔崇拝者たちの多くが多重人格者であり、幼少期から虐待を受けてきたという現実。
http://rapt-neo.com/?p=19219

RAPT | 悪魔崇拝者たちの多くが多重人格者であり、幼少期から虐待を受けてきたという現実。

ラプトさんの、記事。今まで、様々な記事を見てきたが、どれも私には、あまりしっくりこなかった。
が、この記事は、あながち間違いではなさそうだ。 教皇が、虐待をしているという事実は、私にはわからない。
が、多重人格を作り上げるには、精神虐待や性的虐待というのは、真相だろう。
私は、幼い頃から、家庭で精神的虐待を受けたので、多重人格が発生した。
私は、色々な能力が使えるようには、と探っていたが、やはり多重人格になるしかないのである。他の人の能力を使えば良いという、事業家精神も大事だ。
原理を知って、悪用している連中というのは、どの時代にもいる。ただ、裁きは行われるはずだ。恐らく、その法則を掻い潜ろうと画策しているのだろう。ある一定までは、掻い潜ることができているから、続けられるのだろう。人間は、人間を虐めることは、造作ない。まして、悪魔と一体となった人は、虫けらのように、人を扱うだろう。