どの人の言っている事が一番正しいの?真実真理含有率の違い

多くの先達者が、真理や真実を説いている。
小林正観さんという方も説いている。アカシックレコードに書かれているものがあるとする。
生身の肉体を持っている人が、全ての真理や真実を、引っ張り出せたら、他の人がその人以上に発展する余地がなくなる。例えば、キリストが、全ての真理や真実を引っ張り出せるのであれば、他の人は、追随するしかないのである。そんな世界にするだろうか。果たして、それが理想なのだろうか。理想を突き詰めると、この世の真相がわかってくる。もし、自分自身が理想の神だとして考えてほしい。自分以上の存在がいないのは、寂しくないだろうか。そういう発想があるということは、その線は確実にあるのである。なので、時と環境と人と場所によって、会得できる真理や真実の量や含有率が違うのである。
生身の人である限り、 脳のキャパシティがどうしてもある。
人が説いている事は、どれくらい真理や真実の含有率が高いか、どうかで、判断するのが良い。仏陀と基督どちらのほうが、真実含有率が高いか。
ただ、真実に目が眩むと、より重要な核心を失う気がしてならない。理想社会の実現に向けて。
どの宗教団体も、そういう視点で見れば、似たり寄ったりなのである。うちの方が正しい。貴方達は、間違っている。
真実が、合ってるのか、間違っているかの二者択一思考フレーム。自分自身もよく、その術中に嵌まっている。真相が気になるのはよくわかる。純粋に突き詰めれば、わかるはず。
話は変わるが、
無いのが当然というパラダイムが、減ってきてるのが困ったものである。アフリカの貧困地帯には、食べるものが、ない。日本のご家庭では、子供に「有るのが当然だと思ってるでしょ」ではなくて、「無いのが当然なんだ」というのが、減ってきている。何事も、元々はない。生まれてくる前は、魂のみ。魂だけあれば良いとは、あまり考えない。死ぬときには、そんな色々持っていけないのだけど。極論言うと、「魂だけ消されないだけ有り難いと思えー」なのである。元々無いのが当然なのである。お金も、服も、家も、おもちゃも、家族も、友達も、食べ物も、学校も、職場も、肉体も、、。有って当然と思うから、感謝ができない。「命さえ」取られなければという人がいる。唯物論の発想が、入っている。
それよりは、「魂さえ」取られなければ、である。人間が思っている魂の取られ方じゃないっぽいが。しまいには、何もなくても、何もかもがなくなっても、有り難いが感謝の達人なのだろうか。それとも、魂さえなのか、命さえなのか、はたまた肺なのか、記憶なのか、なんなのか。どこが中庸なのだろうか。 全てがなくて当然。というのが、福音だろう。仮に、宇宙の始まりに、生まれてたら、何があっただろうか。地球の始まりに生まれてたら、人類の始まりにタイムスリップしたら、、、。
宇宙の始まり。地球の始まり。人類の始まり。有史の始まり。クニの始まり。日本の始まり。 無いのが当たり前だから、無気力かというと、そういうものではない。感謝のエネルギーは、一番強く働くのである。なんで勉強するの?という問いには、「すべてのものに感謝するため」と答えたい。今のところ、それ以上は見つからない。すべてのものだから、ずっと学ぶ必要があるということでもある。「じゃあなんですべてのものに感謝するの?」 「一番、人間にとって、必要な事だから」と答えよう。「えー、よくわからない」と言われたら、どの選択肢がいいかなと考える。人によって、伝わりやすい表現がある。