読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

優劣教育 比較教育 美醜教育

比較教育というものがある。
ヨーローパの二元論的な世界観だ。
第二次世界対戦の枢軸国と連合国。
比較というのを、受験勉強で徹底的に、
習う。
比較ぐせというものを持っていく。
比較することが大事であると、比較偏重主義になる。
比較することが、頭に良いようである。
比較する人は、比較される。
比較することでわかることもある。
「比較しすぎ」という言葉がある。
「高望みしすぎ」という言葉がある。
自分を苦しめる比較というものがある。
自分を肯定する比較というものがある。
自分を高める比較というものがある。
できれば、自分を肯定したい。
「唯一無二な使命があるのだから。」
人と比較はしないとアスリートはいっている人がいる。しかし、本当に「比較」してないのだろうか。

比較の定義が違うのかもしれない。
例えば過去の自分と今の自分を比較する。今の自分と未来の自分を比較する。
現実的に自分を圧倒的に高める信仰をする場合もある。圧倒的な存在になると、確かに抜け出すから、比較する相手が少なくなる。上か下かのピラミッドのような気もする。
超人は、森羅万象を師とする。
私も、キャリアデザインにも書いたが、最適解として、森羅万象を師とするようにしてきた。
ただ、まだ人と比べる自分がいる。
過去の自分と今の自分というのは、キリスト教的な人類進化論である。自己啓発もこの類いである。
確かに現実的に見える形で、結果が出る。

私は敢えて、思いっきり退行してみた。
退行させられたとも言える。

あれ?人は成長していないのではないかという説も思う。
人は、成長する存在する説とも思う。
このパラダイムは、とても自分の人生観に影響を与える。
資本主義や実社会に則している。
頑張っているのが、良いとする観念である。ここまでくると、もはやわけがわからない。



美醜教育というものもある。
顔が、ブスはブスである 。
性格が、ブスもブスである。
考え方が、ブスもブスである。
果たしてそうか。

優劣教育というものがある。
私は、劣っているのか。優っているのだろうか。もちろん、感情では優っていると思いたい。でも、現実的に優っていないものも多くある。多くあるというのは、主観である。本当に調査しきれたのだろうか。