キリスト教(イエス)と仏教(ブッタ)は、結局どっちが正しいの?と思う事があるだろう。
以下は、あまり意義がある文章にはなっていないので、申し訳ない所だ。
長年の謎だった。数々の試練があった。キリスト教の団体に入会したり、仏教のある団体に弟子入りして修行したり、一見、キリスト教と仏教に無縁そうな神道系の団体に所属したり、他にもいくつもある。
非常に非常に、難航してる。ただ、難航するものは、とてもやりがいがあるし、発見したら、格別の喜びがある。
キリスト教と仏教の相違点や共通点が、人気がある。比較宗教学がある。比較宗教学は、行き詰まる。私も、昔、このアプローチをしていた。学生は、何かを解明しようとする時、そういう風なアプローチを習うのである。それでは、到達できないのだ。
宗教的教義の違いは、今は、他に譲ろう。
翻って、人間、不幸な時は、病気やトラブルの時は、何か安定する理由が欲しいものだ。
ブッタは、前世がある。から頑張りなさい。イエスは、前世はないが、頑張りなさい。
というメッセージがある。
が、イエス・ブッタ越えという見解だと、前世があるかどうか、あったりなかったりする、部分はあったりなかったりする、心の部分はあったりなかったりするという。
キリストとブッタ越えの世界の仕組みである。
アイデンティティを、過去の超偉人よりも上にする大大自由な視点がある。人生の超偉人の言葉を参考にする。「超偉人を超えてやる」と、意気込むと、世界が全て変わって、角度が急傾斜する。もちろん、超偉人になれる人は、約80億分の1の一人だけである。確率が超圧倒的に低い事に怖じ気づくか、邁進するかは、貴方次第だ。歳を取る毎に、自分自身に、極端に自信がなくなる。「あ、私じゃないんだ、もう無理」とたびたび思う。でも、、、。
スケールが大きいことを言う人は、成功しやすい。でも、現実に負ける人も多い。闘志を燃やし続けても、無理なのだ。でも、、、。
人間の長期間の努力で、どうにもならない領域がある。でも、、、。
口外無用である、そういう事もあるが、勿体ぶって申し訳ない。
(2ページ目)ブッダ釈迦が伝えたかった仏教の【教え・悟り】とは?|終活ねっとのお坊さん
20年後何してるか? 何かを過ごしてる。この人、どういう評価なのか考えてる。人間過ごす事を除外することはできない。たとえ、死んだとしても、おそらく。将来性がある一線は、想像しとく。悟りの技術書は、20年じゃ間に合わないという観点も必要だ。
この後の事は、全てに近い人が、信じられないだろう。これだけ突き止めるのにも、非常に困難があった。
この記憶は、前世ある。この記憶は、前世ないと分かれてる。循環してる記憶と循環してない記憶。人間は、どう作られているかだ。
ここから先は、秘匿事項だ。秘匿事項の解禁は、いつだろうか?
天上天下唯我独尊から、地上宙下全我総集へ
勿体ぶって、大変申し訳ありません。いつか書ける日が来ればいい。
最後まで御清覧ありがとうございます。このご縁に感謝です。