verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

仏陀とキリストは、どちらが正しい? ブッタイエス越え、超える 不安な時

キリスト教(イエス)と仏教(ブッタ)は、結局どっちが正しいの?と思う事があるだろう。

以下は、あまり意義がある文章にはなっていないので、申し訳ない所だ。

 

長年の謎だった。数々の試練があった。キリスト教の団体に入会したり、仏教のある団体に弟子入りして修行したり、一見、キリスト教と仏教に無縁そうな神道系の団体に所属したり、他にもいくつもある。

非常に非常に、難航してる。ただ、難航するものは、とてもやりがいがあるし、発見したら、格別の喜びがある。

キリスト教と仏教の相違点や共通点が、人気がある。比較宗教学がある。比較宗教学は、行き詰まる。私も、昔、このアプローチをしていた。学生は、何かを解明しようとする時、そういう風なアプローチを習うのである。それでは、到達できないのだ。

宗教的教義の違いは、今は、他に譲ろう。

 

翻って、人間、不幸な時は、病気やトラブルの時は、何か安定する理由が欲しいものだ。

ブッタは、前世がある。から頑張りなさい。イエスは、前世はないが、頑張りなさい。

というメッセージがある。

が、イエス・ブッタ越えという見解だと、前世があるかどうか、あったりなかったりする、部分はあったりなかったりする、心の部分はあったりなかったりするという。

キリストとブッタ越えの世界の仕組みである。

アイデンティティを、過去の超偉人よりも上にする大大自由な視点がある。人生の超偉人の言葉を参考にする。「超偉人を超えてやる」と、意気込むと、世界が全て変わって、角度が急傾斜する。もちろん、超偉人になれる人は、約80億分の1の一人だけである。確率が超圧倒的に低い事に怖じ気づくか、邁進するかは、貴方次第だ。歳を取る毎に、自分自身に、極端に自信がなくなる。「あ、私じゃないんだ、もう無理」とたびたび思う。でも、、、。

スケールが大きいことを言う人は、成功しやすい。でも、現実に負ける人も多い。闘志を燃やし続けても、無理なのだ。でも、、、。

人間の長期間の努力で、どうにもならない領域がある。でも、、、。

 

口外無用である、そういう事もあるが、勿体ぶって申し訳ない。

 


(2ページ目)ブッダ釈迦が伝えたかった仏教の【教え・悟り】とは?|終活ねっとのお坊さん


ハカシルのお坊さんの紹介 - ハカシル

 

20年後何してるか? 何かを過ごしてる。この人、どういう評価なのか考えてる。人間過ごす事を除外することはできない。たとえ、死んだとしても、おそらく。将来性がある一線は、想像しとく。悟りの技術書は、20年じゃ間に合わないという観点も必要だ。

この後の事は、全てに近い人が、信じられないだろう。これだけ突き止めるのにも、非常に困難があった。

この記憶は、前世ある。この記憶は、前世ないと分かれてる。循環してる記憶と循環してない記憶。人間は、どう作られているかだ。

 

ここから先は、秘匿事項だ。秘匿事項の解禁は、いつだろうか?

天上天下唯我独尊から、地上宙下全我総集へ

勿体ぶって、大変申し訳ありません。いつか書ける日が来ればいい。

因果律の最高支配者層は、仏陀かキリストか?

 

最後まで御清覧ありがとうございます。このご縁に感謝です。

寿司事件 相手の見解にのる ろう者

夕飯18時の前に、16時に寿司を食べる機会があった。伯母がしゃりを残した方がいいという助言をしたが、全部食べてもいいという自分の見解があったが、伯母の見解に従った。やはり夕飯がなかなか全部食べれなかったが、寿司を全部食べるよりは、食べられた。もっとシャリを残してもいいとも思ったが、自分の見解と違っても、相手の見解にのるのは、成功の秘訣かもしれない。これの延長線上で、種々の揉め事も解決するかもしれない。

リュックにシミみたいなほこりの塊ができて、伯母が、ウェットティッシュをしたら?と言っていた。私は、ドラックストアの店員に、事情を説明して、軽いものならウェットティッシュか、重いものなら染み抜き洗剤がいいと言われた。店員も詳しいなと思った。染み抜き洗剤には、漂白剤が入ってて、色落ちするかもしれないと言われた。まずはウェットティッシュにしようと思った。それでダメなら、染み抜き洗剤を使おうと思った。染み抜き洗剤で洗うのは嫌だと思って、ウェットティッシュでふくと、きれいに取れた。物には、手入れする時期がある。

 

子供の等の事情があり、減給されても、固定給なら、仕方ないと思われる。自分から減給を申し出るという策もある。

 

http://www.news.ed.jp/rou/mimiyori/omake/jiken.html

こんな事件が起きたのかと思った。

人生何だと 人生論 後悔してる

人生後悔しても遅い。
この道になった縁というものもあるのではないか。自分が素直に、嫌でもやるという気持ちも大事ではないか。

人生進まなければ、進まない。
人生色々ある。
相手の服が臭いのを注意しないといけないかと思い、怒られるかなと思ったが、注意したら怒られず、見直された。

人生、何もしないで幸せになることはできない。つくつぐそう思います。

交通で、寝過ごした時 朝 謝り方

頭の回転を早め、最速のリカバリーをすると良い。
最速のルートを調べあげるのだ。
最速思考で調べてみるのだ。
最速思考が有利に働く。
最速思考と言えば、仕事も最速になるように、試行錯誤をすると良い。最速にならないのは、何かを見落としているからだ。何かの業務を、するときに、ある最速のイメージをキャッチして、動かしてみることが大切なのだ。
朝遅刻をして、謝らないといけない場合、変に嘘を言うと、バレると、より厄介になったりする。なので、正直に謝る方が良いかもしれない。

戦争肯定視点 肯定派

私は、戦争嫌いである。が、色々な思索を重ねてきた。

今回は、普通とは違う視点を見てみよう。

戦争というのは、人間同士の大規模な殺し合いなのだ。戦争は、カルマの解消ということにも、繋がるのだ。エネルギーという視点で見れば、いたって、普通の事が起きているに過ぎない。

人は、感情があるから、生存欲求があるから、自分が死ぬのが嫌だ。これを克服した人は、また違う視点なのだ。人は、罪を犯すより、死んだ方がマシという視点だ。相手を殺すより、自分が死んだ方がマシという視点もある。

また、地球には、人が多すぎるという視点もある。様々な視点があるのだ。このような色々な視点を考えるのは、悟りに繋がるのだ。

「自分がえ?」と思う事ほど、何かに繋がるのだ。私は、ある哲学者が、戦争だけは、悪だと言っていた。その時は、そうだなと思っていた。が、探究を続けると、どうもそうじゃない視点が出てくるのだった。勿論当たり前だが、戦争の悲惨さという視点もわかるのだ。起きるモノは起きるのだ。が、感情的というのも、また課題があるのだ。

私は、「全てのモノを愛す」と決めた。となると、戦争はどうなのかと思索する必要が出てきた。20世紀の戦争により、この21世紀の今まで、戦争がなくなったという視点もある。ごめんなさい。と靖国神社に参拝をした。

が、やはり戦争絶対反対という視点しかなかった自分と、戦争に何かしらの愛を持つ視点の自分というのは、変わっているのだ。マイケルサンデルさんも、哲学をすると、変わる自分がいると表現していた。大人になるのだ。

戦争があるから、国家というまとまりが維持できるのではないかという視点もある。どうしたものかと。戦争が起きれば、私の今の生活は、一変する。それが、みんな嫌なのだ。が、創造的破壊というのもあるのか。

第二次世界大戦で、本気で戦った日本は、破れて、その後、平和な国家になった。何という逆説的だ。という事は、本気の戦争が起これば、より平和な国家ができるのか。それとも、人類というのは、いなくなってしまうのか。どうなのだろうか。まだ、腑に落ちない。未来に起こる戦争を止める事はできるのか。ただ、私は、止めたいと思うだけだったのだった

なぜ、このような事を考えるかというと、一度オールリセットすると、また次に進めるのだ。これを繰り返すことは、無意識マップの完成に近づくのだ。私は、ごめんなさいと謝った。が、まだ腑に落ちない。数多の戦争があったから、今の自分がいるのだ。

やはり、ここでも、「戦争は良いとも悪いとも言える。戦争は良いとも悪いとも言えない。どちらでもあるし、どちらでもない、、、、、。」というものか、、、。何かがまだ解除しきれていない。

 


"日本は正しい戦争をやった" 子どもたちにこう思いこませる教育が許されるか――ここに『歴史教科書』問題の核心がある 不破哲三│歴史教科書、「日の丸」・「君が代」│日本共産党の政策


"日本は正しい戦争をやった" 子どもたちにこう思いこませる教育が許されるか――ここに『歴史教科書』問題の核心がある 不破哲三│歴史教科書、「日の丸」・「君が代」│日本共産党の政策│日本共産党中央委員会

 

 

□追記

世界平和を祈っている。やはり、戦争は起きない方がいいと思う。石油等の利権を奪うために、戦争してはいけない。自虐史観は、どうなんだろう。確かに、自虐のいきすぎも問題だと思う。戦争の悲惨さを、教育するのは良いだろう。

こういう教育でいいのか。日本は悪い、だから世界平和を祈ろうなのか。戦争は、良くない。でも、起こってしまったものを、どう捉えるかは、後世が決めるものだ。世界平和を祈ってほしいものだ。

この国はこうだという国家観は、なかなかない。

 

 

寝起きの深刻さ

実際に寄稿できるかどうかというもの。実際に寄稿したように書く。
テーマが与えらえ書く
テーマも決めて、寄稿する。(マンガ形式)
人は、回り道のようなものをして、辛いと思い、「ああ、なければいいのに」と思ったり、結局元鞘に収まるなら、そんなのなければと思うが、それは間違いなのだ。人生には、紆余曲折が必要なのだ。私は、お金に拘るタームから、お金に拘らないタームに移行した。そして、いろいろな経験をした。が、その時、このような「ああ、なければいいのに」と思ったものだ。が、結局それで独自色が出せるのだ。普通の体験をしたら、やはり普通の事しか出せないのだ。お金は必要なのだし、稼がないといけないのだが、思いっきりお金を拘る事から拘らないタームに移行すると、お金と社会の関係が、くっきりわかってくるのだ。やはり、お金と社会がらみで、自分が当事者だと、どうしても自分の思いこみで判断しがちなのだ。第三者視点を極める事が、神の視点の獲得なのだ。実を言うと、お金から離れると、お金が入ってくるのだ。なかなか人間はわからないが、実はそうなのだ。このお金がなければ生活できない。収入がなければ生活できない。食べ物がなければ生活できない。家がなければ生活できない。衣服がなければ生活できない。というのも、時には思い込みなのだ。探せば、そういう生活をしている人は結構いるものなのだ。探していないだけという事でもあるのだ。が、この日本社会では、納税の義務があるので、その分どうにかする必要があるのだ。よって、やはりお金を獲得する活動も必要なのだ。そして、この回り道に見えるものも、無意識マップ上では、功を奏しているのだ。無意識マップの完成をどの人も実は目指しているからだ。お金に囚われないというマップもあるのだ。が、今の制度では、やはり年金生活ぐらいの年齢か、扶養されている学生時代にしか、お金に拘らない生活ができづらいのだ。勿論、30歳でも40歳でも、そのような活動は、やろうと思えばできる。が、少しばかり、損をしたような気になるのだ。お金という尺度やキャリアという尺度で、捉えているからだ。時には、収入を減らす活動が、自分を救ってくれるのだ。この辺りに、自分勝手に判断し過ぎない事が大切なのだ。私は、この歳で、大失敗した事が、財産になっている。いや、むしろ早めに大失敗した方が、無意識マップの完成になるのだ。失敗させてくれた環境に、感謝の念が絶えない。やはり、若い頃の失敗は、買ってでもしろというのは、その通りなのだろう。大失敗が、大きな視野になれるチャンスなのだ。なかなか人は、自分の作った狭い範囲で、右往左往しているものだ。それを破った時に、新たな自分になれるのだ。この殻を破れるかどうかだ。ただ、破って自分を助ける殻と、破って自分を後々困らす殻がある事に気付く。私は、性欲が抑えられない淫乱な時期があったが、やはり抑えていた方が良かったのだ。その後、抑えるように努めたものだ。私が仕事で苦労しているのも、この淫乱の時期のカルマなのだ。できるだけ刈り取るに限るのだ。勿論、それはセックスをしろという意味ではないのだ。人に依るが、年に1・2回で十分なのだ。これぐらいが丁度良い塩梅なのだ。やはり、私は、もう淫乱になる事はないのだ。どれだけそれが、巡り巡って自分を苦しめるか知っているからだ。性に奔放が良いわけではないのだ。それは、結婚しても同じなのだ。いくら、性欲を我慢して、結婚したとしても、セックスばかりして、周囲の人に愛を注げないのは、辛い事なのだ。新婚生活は、初初しいが、できる限りセックスを自重すると、実は長続きするのだ。私の両親は自重していたので、離婚する事がなかったのだ。この辺りも、やはり、因果応報なのだ。だから、神に選ばれた人だからと言って、セックスばかりしていては、辛くなる運命になってしまうのだ。神というのは、こうしたらこうなるよというのが、わかるゲームの設定者なのだ。なので、人間がどういう事になるかわかるのだ。できれば、ハッピーで居続けてほしいのだが、設定を覆すわけにはいかないのだ。なので、できる限り、カルマを消去するに限るのだ。どれぐらい幸せになれるか想像だにしないくらい幸せになれるのだ。私も、意固地になった場面があり、申し訳ないのだ。ごめんなさい。人生の原理に気付くことが、悟りの第一歩なのだ。私は「因果応報って、どういう事だろう?」と思っていたものだ。が、それがよくわかるようにさせていただいた。そうすると、人が日常生活のどの場面で、カルマを溜めているかだ。ところがどっこい、そこまで実は人は、頑張り過ぎなくてもいいのだ。ただ、冷静に心の中心の声に耳を傾かせながら、生きればいいのだ。ここで、欲張らない事なのだ。止まる動作も大切なのだ。私は、純粋に心の中心に従う事を始めてから、とてもいい気分になれるようになったのだ。例えば、乾電池のメーカーに、乾電池のお礼を電話しようと電話を鳴らしたが、やはり、そこまで純粋に感動したわけでないので、やめたのだ。ちょっとした笑いになったものだ。このちょっとした笑いというも大切なのだ。「なんで乾電池ごときで、お礼するの?」という思い込みに囚われない事なのだ。「じゃあ、何なら、あなたはお客様センターにお礼の電話をするの?」と聞きたいものだ。が、やはり純粋意識がそこまで乗っていないものは、そこまでしか相手を喜ばせられないとも言えるし、冷やかしに思われる事もあるかもしれないので、冷静なジャッジが必要なのだ。お客様センターというのは、クレームばかりでいやなのだ。なので、少し感謝のお礼を言われると、ああやってて良かったなと思えるものなのだ。その辺りは、確かに会社勤めしないとわからないものだ。私は、民間の会社に勤務して良かったと思っている。何となく、自分が使っているものは、自分の立場ばかりで考えすぎてしまうからだ。お礼を言う基準というのを上げすぎると、自分を苦しめるのだ。気軽に、お礼を言えばいいのだ。私は、だいたいの文は、あの時あの人と話したなという記憶があるので、そこが客観性の担保になっているのだ。自分勝手に考えたものばかりではないという事だ。この辺りは、とてもありがたいものだ。老若男女と忌憚なく話せれば、わかるものだ。なので、やはり会話というのは、大切なのだ。ただ、重複項目が多くなり過ぎると、とても辛くなるのだ。そういうものなのだ。表現したいものを、顕在意識の記憶から、取り出しているのだ。やはり、そこに記憶がないと、取り出すのが、無理なのだ。無意識的には、こんなものというものになってしまうので、言葉の表現にできないのだ。よって、今まで少しでも、話をしてくれた人に感謝したい。ごめんなさい。ありがとうございます。全ての誤解は、その人がある立場に立ったことないから生まれるものなのだ。その立場になれば、わかるものなのだ。そういうものだと悟る事なのだ。だから、年齢が上がれば、だいたいその事には気付くのだ。ただこの相手が気付いているか気付いていないかは、たいてい人間勝手な判断で、誤ったものになりがちなのだ。なので、神のジャッジメントと悟った人のジャッジメントが必要なのだ。神と悟った人ほど、冷静なのだが、相手にはわからないものなのだ。なので、ゲームの設定を伝えた上で、どうするかしてほしいという時代になってきたのだ。この辺りは、とても有り難いものなのだ。専属の神というのも必要なのかもしれない。人は、リーダーに、一人の人間だからという視点と、多数のガイドだからという視点があるのだ。多数のガイドだからという視点では、矛盾を一切許さないのだ。が、それは本人が矛盾と思っているだけなのだ。この世の真相を知れば、矛盾は一切ないのだ。物理的な行為だけではないのだ。人が入ると入った責任が増える。入らなければ、物理的な量のものが作れない。このジレンマがある。やはり、私は、指導者の視点にばかり、考えていたようだ。それは、やはり先生だからだろう。ただ、今やっている事と、心で感じている事のギャップが誰でもあり、そこで頭を使いながら、たまにグチをいう事になるのだろう。誰でも、純粋フラットだからだ。あまりに、誰もが英語を勉強しろという圧力に負けているようだ。英語力と幸せは、比例しないのだ。この事に気付くことが増えて欲しいものだ。魂に本当に必要な場合は、もの凄い勢いで勉強するものなのだ。馬耳東風というのは、とても心を守る事なのだ。意識で必要な事を入れるのだ。私は、英語をBGMで、無意識の器を使えているかのチェックにしている。ついつい音に気が取られてしまうからだ。そこで、意識の器になりがちなのだ。そうすると、不要な情報を入れる事になるのだ。ただ、たまに意識化に入る必要な情報もあるのだ。が、かけない事も大切なのだ。それは、不要な循環を、あまり起こさないためなのだ。全ての時が満ちるタイミングというものがあるからだ。私は、元々、心の声を聴いていたのだろう。が、いつしか頭の声ばかりに囚われるようになったような気がした。将来が、不安だったからだろう。また、どうにか世界に広げるにはどうしたらいいかと苦心してきたのだ。心の中心の声に従いながら、頭で迅速に行動するというのは、とても難しいものなのだ。私は、心の声を軽視した時期があったが、それはどうしても、なかなか難しい場面だったのだ。やはり、人は身内だけでなく、赤の他人にも発信動作をする最低限の量というものがあるのだ。それがないと、循環がうまく回らないのだ。この量の目安は、その人の状況によるのだ。どのおばあちゃんも、それなりに発信すると人のためになる教訓というものがあるからだ。それは、次世代にとっては、ありがたいものなのだ。
繋がりがあり過ぎると、余計な動作が増えるのだ。この辺りも、うまくフェードアウトとフェードインが必要なのだ。ただ、私は、同じ動作で、一人に伝えるのであれば、1億人に伝えたいものなのだ。その準備をしているのだ。天衣無縫というのは、そういうものなのだ。読んでいると、多種多様な循環を起こせるようにしたいのだ。イヤだと言い合える関係がベストな関係なのだ。私は、温泉に連れて行くのを断った。それでいいのだ。どの人も悟りきるまでが勝負なのだ。名前も顔も知らないリビアの人にも私は、届けたいのだ。そうすると、このような文章にならざるをえないのだ。散文といわれる形式だ。勿論、項目ごとに分ける本の形式も必要だ。やはり、人は、そんなに時間がないからだ。が、愛読者のために、あえて散文形式の総循環用も用意周到にしているのだ。ここまでする人は、いないのだ。どういう結末になるかわからないままいろいろな循環を巻き起こせて、飽きないためには、この散文形式総循環スパイラルアタックが必要なのだ。なぜなら、私が一番飽きっぽいからだ。ただ、どの人も恋のような気持ちであれば、その人の記事を熱心に読み続ける事ができるからだ。恋のメカニズムと最高の霊能力のコラボによって、摩訶不思議なイリュージョンを起こせると信じていながら、疑いながら、生きているのだ。空中浮遊とテレポーテーションを駆使したイエスキリストの空中携挙だ。そうでもしないと、人間の根強い固定観念は、直らないんのだ。ただ、これはやりたくないのだ。それは、人間が自ら作った価値観を自らの行動と深淵な気持ちで直してほしいからだ。言語というものを作って疎通を図ったのだから、言語で疎通を図って欲しいといおうのが、神側としては、あるのだ。確かにその通りなんどあ。誤字を敢えて書くのも、教養のチェックなのだ。ドンドン見つけて、バカにして欲しいのだ。間違い探しゲームだ。そうでもしないと、人は長ったらしい文章は読まないのだ。
「あたし、あの本の文章で、これだけの誤字見つけた。あなたはどう?」というのも面白いものなのだ。なぜお堅い文章は、お堅い人しか読まないか、どうすれば読むかというのは、頭の良い人はあまりわかっていないのだ。つまり、まじめな文章を読むと、自然と脳内に反発の遊び心が発生するようになっているのだ。これは、そういう原理なのだ。誤字も脱字もOK系なブログもあっていいのだ。この方が、完全循環して、読んだ後にスッキリするのだ。まじめなものを取り入れると、どうしてもまじめな頭になりがちだ。たまには、牛乳の一気飲みをするのもいいのだ。なぜなら、誰にも迷惑をかけていないからだ。このような誰にも迷惑をかけていない遊び心を持ちながら、悟っていってほしいのだ。私は、どうしたら、一人でいる時に完全循環を起こして、最高の幸せ状態にいる事ができるか苦心してきたのだ。自虐とギャグを極める事なのだ。人は、一人でいると鬱になると言われるが、実はこの自虐とギャグを駆使すると、心がスッキリするようになっているのだ。私は、これに気付くまでに、28年かかった。なかなかこれは難しいものだ。なので、このノリノリ観をキープしてほしいのだ。神も笑っているあなたが好きなのだ。どんな場所でも笑える時がくるのだ。冬を越えれば、春になるのだ。どんなまじめな人も笑って欲しいのだ。笑い愛たいのだ。たとえ、血が流れる戦場でも、ペニスの大きさの話をして笑い愛たいのだ。私は、英語ハートローカーで、気付いたのだ。「一瞬、戦場で笑いあえるのか」と疑問に思ったものだった。だが、笑い合うのは、愛なのだ。しっかりと神という笑いの聴衆がいるからだ。いつでも笑ってくれるのだ。いやいつも小馬鹿にしているのかもしれない。ただ、誤字脱字ばかりだと、海外版翻訳に困るだろう。翻訳泣かせもいいところだ。「日本語勉強しとけばよかった」と言わせたいところだ。本当の純粋フラットは、一年の笑いの量も、うまい具合にキープするのだ。笑わなすぎても、心に疲弊する。笑いすぎても、循環が進みすぎて、快楽主義に陥いて、カルマを溜めるのだ。この辺りも絶妙なのだ。笑いに魂を売ったサンマ支障は、確かに笑いで成功したが、他の所に魔が行ってしまったのだ。それを刈り取る必要があるのだ。笑えるのだった。ごめんなさい。ありがとうございました。人生は、純粋フラットなのだ。なので、あまり心配する事もないのだ。私のこの状態が、中道なのだとも言える。中道というのも、状態の事なのだ。それで居続けると、人生は楽しいだけなのだ。本質を見抜くととても有意義なのだ。が、同時にとてつもなく愛の葛藤があるものなのだ。愛があるから、葛藤するのだ。神人合一というのは、心の中心の主人と、頭の中心の主人が、同時に存在している状態なのだ。不要な考えが、極端に浮かびづらくなり、必要な考えが極端に浮かぶ状態なのだ。この状態が、人間の理想の状態なのだ。が、旗からは、よくわからないようになっているのだ。どの人もわかるような時代になるだろう。その時、この物事の本質に気付くのだ。とっても素敵な世界なのだ。どの意識層かで考える事が違うのだ。寝起きは深刻で、徐々に気軽になるのと似ている。私は、深い層で、お掃除していたので、とても深刻に考えてばかりいた。が、それが済むと、とても穏やかになるのだ。日本語はとても、微細な単語が多い。だから、日本人は、微細な発想がしやすいのだ。ただ、巨視的な発想が抜けやすいとも言えるl。同じ事ばかり繰り返してはわからないのだ。徹底的に微細に拘ると、巨視的な発想も浮かぶのだ。私も日本文化で育ったので、この微細の部分が抜けて、巨視的な事を言われても、何か嫌気がさしていたのだ。なので、日本人は、もっと微細に見ていけいけば、内外反転っして、巨視的な像を理解できるのだ。この辺りが、無意識マップの埋まりになるのだ。内部の無意識マップの循環というのは、本人が知らず知らずに渦巻いているものなのだ。そして、時に現象界に現れるものなのだ。無意識マップが完成すると、どの会話もありがたいものなのだ。怒られた会話も怒った会話も感謝なのだ。すべての人がお互い様という意識で思える人が増えて、連帯していってほしいものだ。

主のイメージ 次元の違い

次元 認識の違い
次元という言葉に疑問を感じたことはないだろうか?私は、ずっと感じていた。何か、使い方が、人によって、違うのだ。
次元というのは、状況によって、違う表現がある。5次元、11次元、30次元というものだ。どれも、細かく分けているか、大枠で分けているかの違いなのだ。
誰かについて、「あの人は次元が高い。」「次元を上げていきましょう。」というのは、超細かく分けて、考えているのだ。
5次元以上の話をする時には、各方面で伝えるのだ。13仏で、区切るのもあるようで、それを基にカウンセリングをするのもあるのだ。区切らなければ、相手に伝えられないからだ。五次元というのは、相手に伝えやすい最小単位なのだ。まずは、そこから入るのが良いのだ。そして、私は、疑問に思ったのだ。なぜ4次元空間だけでダメなのか?という事だ。なかなかまだ解けきれない。電池とガスで、家のコンロは、火を放つ事に気付かされた。が、まだ腑に落とせていない。なぜか、、、、。まだ、分からない。そもそも、四次元空間というのが、何かわからないからだ。どこまでが、4次元空間なのか、、、、。反粒子というのは、4次元空間なのか、、、。神とは、陽子とも言える。仏とは、電子とも言える。どちらのモノも愛せるのだ。宇宙の中と外があるという視点で言えば、反粒子でできた反人間というも、存在するはずだ。それは、自分の陰のような存在でもある。そして、純粋フラットな動きがある。睡眠中の自分と、起きている自分。どちらも愛すのだ。良想念というのは、陽子と電子。悪想念というのは、反電子と魂だ。全てを愛すという行為は、オリジナルマインドの動きに、意識が合うので、瞬時に構成要素を変えられる。眼鏡のようなものだ。ピントが合えば、目の前に広がる世界は、変わる。ごめんなさい。私は、電子レンジに感謝が足りなかったのだ。だから、電子レンジが、使えない状態を経験させていただいて、電子レンジの有り難みが改めて、感じさせて頂いた。つまり、一般常識の逆の体験をすると、黒と白の世界から、レインボーの世界にひっくり返るのだ。隣のおばあちゃんに、カードをあげるタイミングを見計らっている。ピンポンを押しても、出ないからだ。そうすると、ベランダで、ちょうどぴったりのタイミングでないと、渡せないのだ。変に声をかけても、お互いにとって、最高のムードにならないからだ。私は、タイミングを見計らう時間をたんまりかけている自分を許している。今まで、五月蠅くして、不快にさせていたお詫びなのだ。深い次元では、誰もが愛し合いたいのだ。それも、この世界なのだ。早く仕事を大量にこなさせばいいという魔に取り付かれていた。それが、間違いなのだった。ただ、間違いをした自分も愛してあげるのだ。生きていれば、悟ることができる。無意識マップの完成ができるのだ。共に、みんなで、完成を目指そうではないか。境界線を引いていたのは、自分であった。どんな自分も愛してあげるのだ。私ほど、自分を責めた人も少ないからだ。が、私よりも、責めた人がいた。それは、私の姉だった。ごめんなさい。ありがとう。私は、そこまで自分を責められなかった。結果が物語っている。私は生きていて、彼女は死んだ。だが、神は、どの人にも救済措置を講じている慈愛に満ちあふれているのだ。最大の罰と思ってたモノが、最大の愛なのだとわかる時が来るのだ。それは、いつ来るかは、わからない。それを知っているのは、神だけだ。私は、自分で見た美しいこの世の有り様を、自分自身を見分けるために、自分という存在をわけたのだった。感謝状態というのは、どういうことなのか?それは、例えば、食器洗い一つにしても、「お湯で洗えて、ごめんなさい。ありがとう」「この洗う仕事ができて、ごめんなさい。ありがとう」お玉を触って、「堅い物質があって、時間かかったね、ありがとう」というのが、次々に浮かぶ状態なのだ。私は、このお玉という単語が浮かばなかったが、ずっと記憶を探していると、わかるものだ。ここで、人に聞こうとばかりすると、記憶の感覚が、優れない。やはり、インターネットで、モノを調べると、感性が鈍る傾向があるのだろう。ごめんなさい。いつも、感謝もせずに、調べてばかりいて。これが、オリジナルマインドから見た視点なのだろう。とてつもなく、ありがたい。身震いがする。「こんな素晴らしい所にいるのだ」と気付かされる。人とばかりいると、このような気付きが得れない。人といることが正解とも限らないのだ。自分がやるべき事から、ついつい魔に負けて、離れてしまう。私は、日常生活がいかに素晴らしいかをどの人にも体感して、いつでも幸せになってほしい。感謝だけでも、ずっと幸せになれる。道具がなくても、幸せになれる。「なんでそこで謝るの?」という人は、感謝が足りない人の特徴だ。自分が、どれだけ壮大な空間にいるのかという事に気付けば、謝るばかりなのだ。まずは、形式だけの謝りでもいいのだ。そこから、段階を上げていけばいい。太陽は、いつも降り注いでくれているのだ。怒りあったら、仲直りをして、ご飯を食べるのだ。怠けたい気持ちはよくわかる。私も、こうして、横になりたいのを我慢している。この我慢とやせ我慢は違うのだ。拠点というのは、大切だ。私は、睡魔を我慢した。が、いつのまにか寝てしまった。ごめんなさい。いつもちゃんとした生活をしていなかったのもあるだろう。また、数学の時間に寝ていたのもごめんなさいだ。やはり、自分で頑張らなかった分は、自分を苦しめるのだ。自分で頑張った分は、自分を助けるのだ。私は、家にいる。それは、家で頑張ったからだ。やはり、その頑張ったものは、世間では通用しないからだ。そこまで、世間は、悟っていないからだ。悟っていない人同士では、いざこざが増えるのだ。それは、愛なのだ。私は、楽をしたかった。が、楽をすると、辛くなるのだ。人間は、楽ができない生き物なのだろう。ただ、生きているだけで、素晴らしいのだ。生きているだけで、素晴らしいのだ。生きているだけで素晴らしいのだ。私は、意識体だけの世界も体験させていただいた。が、それは素晴らしいが、面白くもないとも思った。こうやって、現実があるのは、とても有り難いのだ。私は、死人を愛すが、どの人も、この有り難さに気付いてほしい。謝罪のごめんなさい。と感謝のごめんなさいは、波長が違うのだと気付かされた。ただ、感謝は、ありがとうだけではないのだ、ごめんなさい。なのだ。漢字が、このあたりの微妙な波長のニュアンスを捉えているというのは、それだけ体感して、実践していたからだろう。私は、今にして初めて、感謝の言葉の意味を腑に落とせたようだ。いや、まだまだだろう。そこまで、この感謝というのは、奥が深い。ただ、理屈屋だったのだろう。感謝ができていれば、今頃ここにはいなかっただろう。ごめんなさいの言い方も、千差万別なのだ。私は、母が、食べ物が余っているのに、どんどん買ってきて、捨てるのが、許せないのだ。ごめんなさいとの葛藤なのだ。「何度注意しても直らない」というのは、貴方が変わってないからなのだ。これは、お互い様なのだ。食べる食べないは手段であって、感謝して・愛したいだけなのだ。やはり、朝早く起きてないと、感謝状態まで、戻すのに、時間がかかる。朝の土下座からしっかりやるのだ。人は、「ごめんなさい。赦してください。」という。この「赦してください」は余計なのだ。「ごめんなさい。これします。」だけなのだ。「ごめんなさい。明日は、必ず五時に起きます」なのだ。「絶対起きます」は、連呼するものではないのだ。終いには、自暴自棄や固定観念に繋がって、自分を苦しめるのだ。私は、この検証に長らく時間を使った。確か「絶対」という言葉の強さにより、物事が見た目上は、進むのだ。が、内外反転がどこかで起こるのだ。私は、この言葉の怖さをマジマジと体験したので、たまにしか「絶対」を使わない。だから、必ずという言葉を使う。絶対というのは、絶対というのは、悪魔主義に繋がるのだ。対を絶やしては、後で、しっぺ返しがくるのだ。そして、必ずという言葉は、99.999%なのだ。必ずやりますって言ったでしょ。と絶対やりますって言ったでしょ。というのは違うのだ。絶対というのは、この世界をバカにしているのだ。絶対という言葉を使って人に対して、どれだけ神が応援していると思っているのか。この事を知っている人は、おそらく私と貴方ぐらいだ。絶対の場合、状況を整えないといけなくなるからだ。これは、申し訳ないのだ。だから、見栄で絶対を多用した人は、後で痛い目に合うのだ。だから、必ずやり抜きますなのだ。その日のうちの仕事というのは、朝次第なのだ。自然と決まるものなのだ。ただ、ごめんなさいなのだ。絶対という言葉を使って、それが実現していたとしても、それを誓ってはならないのだ。これは、マタイによる福音書の5節33にも書いてある。誓ってはならないというものだ。人はみな、「主」という像を自分勝手に解釈しているのだ。私は、今で自分の「主」像は、間違っていた事に気付かされた。いや、今も完璧ではないのだ。ただ、ごめんなさいなのだ。

 

追記

なかなか次元がわからなくなった。異次元に来てしまったようだ。元の次元に戻れるのだろうか。