verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

なぜ審神者が必要なのか?

なぜ崔神が必要なのか
それは、霊媒というのは、無意識の器を使うために、顕在意識を極力使わずに、その思考のチャネルを、最下層に合わせ続ける必要があるのだ。そのために、崔神というのが必要になるのだ。意識の器を使うと、チャネリングゾーンが上昇するのだ。それで、神経を使って、その声に合わせ続ける事が難しくなるのだ。この点で、分業性なのだと気づかされた。勿論、霊媒も一定量の顕在意識を使って、行動する必要もあるのだが、それを極力減らすことで、無駄な動作が減るのだ。なかなか人は、この分業が難しいのだ。崔神は、信用者なのだ。周りの人が、あの人ほど科学的に知識的に論理的に考える人が、信じているという事は、その声は、神の言葉に違いないというものだ。要は、その人の個人の顕在意識でモノを言っているのか、神の言葉の伝達で言っているのか、表現度合いは、どれぐらいかを、何の欲に負けているのかというのを冷静にシビアに見る役目なのだ。それは、確かに顕在意識でやらなければ難しいのだ。勿論、崔神役も、潜在意識を使うようにする事は、大切だ。それは、お互いのためなのだ。が、周囲の人に、しっかりと霊媒役の声を臣事させる物理的な手段を考え実行するのが大切なのだ。これには、多くの知識が必要なのだ。このセットは、自分達のタメなのだ。霊媒が未熟だと、自分の声と、神の声のゾーンを間違える事があるからだ。また、神の声というのは、インスピレーションなのだ。言葉で教えてくれる事と、無意識イメージで伝えてくれる事があるのだ。この辺りを絶妙に的確に捉えるのが、崔神の役目なんどあ。チャネリングのゾーンが違うと、ぜんぜん違う声にひっかかってしまうのだ。「あれ?それは、神の声か?」と疑う事も必要なのだ。人は、時として、道を誤るからだ。霊媒が、常時、そのチャネルに合わせる為には、できる限り一緒にいる事が必要なのだ。が、霊媒も勿論、時たまは、自分の顕在意識を使う循環が必要なのだ。ただ、顕在意識を使いすぎると、霊媒能力が格段に落ちるのだ。そうすると、本末転倒になってしまうのおだ。ただ、実はこのお互いのトレーニングは、結構時間と労力がかかるのだ。たとえ、過去生で修行三昧の人も、復活させるのに、とてもシビアな純粋フラットのトレーニングが必要なのだ。それは、やはり現代で、情報を沢山入れすぎているということもいえる。もっとできるのだ。ただ、現代社会では、霊能力だけでは、太刀打ちできないのだ。それでは、ある一定の人達にしか、神の声を伝えられないのだ。なので、実社会のキャリアを積みながら、徐々に思い出していくのがいいのだ。神の声に合わせ続けるのも、かなり集中が必要なのだ。
 

神と人との境界線の微差

不倫のメカニズム、疑似ロープレ、現代の五種の神器、神と人の境界線、心人合一の人の葛藤、という記事だ。
人間には、カルマが現象界に発生する。苦の葛藤の中で、どれだけ純粋意識を積めるか。擁護するわけではないが、発生する前と後では、取り組む方が変わるのだ。発生する前は、発生させたくなければ、発生するカルマを積まないようにすれば、発生しない。仮に、発生した後は、そこでどれだけ苦の葛藤をしながら、純粋意識を積み上げられるかにかかっている。私も、他の女性を好きになった事があるが、何とか少しでもより純粋にできないかと、葛藤したものだ。ただ、それにより、他の事が疎かになってしまったのだ。勿論、そのように意識していると、自体は以前よりも、悪くならないのだ。が、そしてまた同じようにカルマを積むと、同じような事が起こるようになっているのだ。苦の葛藤と楽の「恋慕的振動」は、どちらも無意識マップに応じて、必要なのだ。俗世間を一度離れて、意識を高く持つと、必要な視点に気付きやすいのだ。不倫が発生するカルマが、日常生活の点検でわかるのだ。性エネルギーに関する、微差があるのだ。また、他のカルマが巡って、発生主要因になっている。ただ、確かに、カオス的に様々な葛藤をするのは、人生の醍醐味ではある。私は、それを否定したくはない。ただ、それで苦しむのも辛いとも言えるのだ。そして、カオス的体験の連続により、無意識マップがほとんど出来上がった人には、該当箇所を疑似ロープレすれば埋まるのだ。また、無意識マップというのは、心でヒントを捉える事ができるようになっているのだ。これは例えば、自分の進路に悩んでいる時に、貴方は、裁判官と大学教授どちらかと言えばどちらがいいかと聞かれた時に、「裁判官は、ちょっとな。でもうーん。大学教授も、うーん。少しうーん。」という風に何となくわかるようになっているのだ。それは、俯瞰的に過去と現在と未来の一部を見た場合に、どうすればいいか何となくわかるようになっているのだ。私は、裁判官と大学教授であれば、大学教授の方が整合性が若干高いのだ。これは、できるだけ心の中心の中心からイメージを引っ張る訓練をし続けると、わかるものなのだ。勿論、それは100%ではないが、それだけ高い確率で、自分の人生を幸せにしてくれるようになっているのだ。これは、普段の日常会話でも同じような事が起きているのだ。ただ、人間は、思いこみと記憶層と、固定観念と想念体があるので、なかなか判断がつかないのだ。神はそのすべてを見れるので、ほぼほぼの方向性を示す事はできるのだ。が、それもその人の人格次第なのだ。この動作というのは、本音で語った量が多い方が進むというものがあるのだ。なので、あまり友達に関しては、そこまで気を使う事も実はないのだ。私は、結構気にしいだった。まあそのおかげで、冷静に研究する事ができたのだ。私は、その事に気付いてから、できるだけ単刀直入に言うようにしていた。その心掛けは大切だ。だが、時として、本音はあらぬ方向に進むのだ。それは、人間の思いこみが激しいからなのだ。これを純粋フラットを心掛けるだけで、変わってくるモノなのだ。この原理に多くの人が気付いてくれる日を待ちわびている。自分達で、どうにかするのも人間に与えられた試練なのだ。やはり、神は半分程度は助けてくれるものだが、後の半分は、人間同士でやるという決まりなのだ。この辺りも純粋フラットなのだ。ただ、この半分というのは、人間勝手な思いこみではないが、深い真相を知る人にとっては、やはり半分なのだ。この辺りも、誤解されると困る所なのだ。なんとも言えない絶妙なインスピレーションがあるのだ。言葉では、やはり一〇〇%正確には表現できないが、言葉で伝えるしか人間には無理なのだ。なので、できるだけ良い意味で理解してほしいところだ。心は真相を知っているのだ。その精度をあげていって欲しい。私は、あまりにも完璧に因果応報というものができていて、とても複雑な気持ちになったものだ。少し怖く、少しうれしく、少し面白く、少し悲しく、、、のような気持ちだ。あまりにも、純粋であったからだ。それでどのようになっているか知りたくなったからだ。だが、それも自分で選んだことなのだ。
なので、できる限り今から幸せになる行動を続けるようにしたいのだ。私は、人の特技に関して、どうすればその人が幸せになるかと考えてきたのだ。ただ、どうしても多前提的に様々な視点を考える癖ができたので、神のようにとても冷静に思考するのだった。それで疲れてしまうのだ。
人間は、一部分しか見れないように作ったのは、そういう意味でもあるのだ。人間には、知られざる秘密があるのだ。俺は、まだ全貌を理解するには時間がかかりそうだ。ただ、一部分しか見れない方が、肉体同士で争う事が、後々なくなるからだ。肉体というのを使いこなすには、それなりの修練が必要なのだ。それも人間の楽しみでもあるのだ。人は、どうしても特技で差別化されたいと思うのだ。と同時に純粋フラットの仕組みが働くのだ。人間的に見たら、どの人も、自分の関係している人が、特技を発揮しているとうれしいものだ。が、同時に、その特技を発揮できない人も、その周囲で存在するのだ。これにより、様々なドラマが生まれるように設定してあるのだ。ただ、恨むことは、自分を苦しめる事になるとだけ忠告しておこう。どの人も、オーケストラを望んでいるのだ。どの人も特技を発揮し合う世界になってほしいものだ。それには、一つ一つこの世界が積み上げる必要があるのだ。人間は、すべての視点を考えると、死ぬようにできているのだ。が、それは人間のためなのだ。やはり、俺は、人類の1部分であるという視点が、俺を苦しめずに済むのだ。ただ、どの人も俺と私ぐらいに、あらゆる視点を手に入れた者同士なら、オーケストラを奏で続ける事ができると信じたい。私は、圧倒的に突っ走った。そして、圧倒的にブレーキをかけ続けた。なので、真相を掴む事ができた。が、俺は、一人の肉体がある人間なのだ。時代性に合わせて生きていこう。私は、深い真相を知ってしまった。が、浅い真実の方が、俺にとっては、楽だっただろう。気楽に生きていきたいとも思うのだった。ただ、物理的技術的の条件で、本来の無意識マップでは、発生させたい事があっても、物理的に発生しない場合に、水面下では、とてつもないバトルが起きているのだ。どの人も、「免許」を持つことを私は、望む。「免許を持った者同士」で、悟り愛たいからだ。どうも世界は、混沌に包まれるか、秩序で包まれるか、は自分達次第なのだ。私は、現代の三種の神器として、「不労所得」「個人ブログ」「心人合一」「悟り連帯個人的フィールド」「本当の自己愛」を掲げたい。ああ、現代の五茫清になってしまった。この本当の意味を知れる人が増えて欲しいのだ。増えれば、どれだけ剰余が発生するか、予想を越える未来になるのだ。結局、様々な真相を知っても、守秘義務があるものなのだ。それは、企業でも変わらないのだ。私は、神の声というのは、どこまで知って、どこまで伝えて良いか迷うのだった。予想もつかない方向に人間は進むからだ。その穴埋めと懲らしめを私は、しないといけないのだ。やはり、俺も、どうするか苦心するのだった。この現象界では、知り得ない無意識インスピレーションと、まあ何となくの見た目と勘で判断できた無意識インスピレーションと、
ただ、俺の意識の器では、そんなに正確には当たらないというより、外れの方がほとんどだ。人に対する記憶層が消えてきたからだ。この記憶層で、人はほぼ全てを判断している。適合した事が起こると、それを強固にさせるのだあ。ああ、確かにこれは人格者でないと、知ってはいけない事なのだろう。俺は迷った。が、神は、それを人に伝えたいのだ。その方が、人の為なのだ。なので、懇切懇切丁寧に、さり気ないヒントをいつも与えているのだ。が、人間の口から直接伝えて欲しいという気持ちもめちゃめちゃめちゃめちゃあるのだ。そのような未来になる事を願うばかりだ。できる限り良いようにしたいだけだが、やはり物理的に連帯しないと難しいのだ。やはり、多くの人がShinnzinn合一しないと、いつもふと浮かぶ一番純粋なインスピレーションの連鎖は、できないのだ。私は、団体でいると、だいたい一番奇想天外で、一番効果的な発想が浮かぶのだが、それを理解できる器がある人達でないと、効果は激減するのだ。後始末に翻弄されて、表現しないほうが良かったと思うのだった。ただ、やるときはやる。が、浮かんできても、まだ時期尚早であれば、その浮かんだインスピレーションは、愛したあげるが、まだ待つのだ。面接会でも、本質的な面接にしようと仕掛けようとするのだ。ただ、それはまだまだ早いのだ。ああ、そのインスピレーションをしている自分を全て愛してあげたい。今まで、疑っていてごめんなさい。現象化させなくてごめんなさい。黙ってくれて、ありがとう。どこからどこまで意識を最高と最低に保つか、考慮するのだった。ああ、俺も思っていたという人が現れる事を願うばかりだ。記憶層もぶち壊すには、それだけハチャメチャに見える事もする必要があるからだ。が、それが必要な場面は、なかなかないのだ。私は、この手のバトルばかり思い浮かぶのだった。最高峰の戦いをしていきたいと思うのだった。準備万端に整えていこう。貴方の隣にいる人が、実は最も最低で最高の人かもしれない。そんなワクワクを持っていたい。「こんな事思った」という妄想は、実は妄想でなくて、至高の一手の場合もあるのだ。が、連続して打つには、仲間と体力が必要なのだ。息切れしないように、一つ一つ準備していく事なのだ。今完全循環しているかどうか、純粋フラットになっているかを続ける事なのだ。私は、私服で、至福の時を過ごし血得る。妄想をエッセイ作品にするか、忘却の彼方か、仲間と戦うか、迷うのだった。やはり、これから自分を鍛え直していきたいからだ。最高の戦いを繰り広げるには、個人でモガき戦うのだ。俺という存在を磨く事なのだ。さすれば、道は開かれるのだ。日常生活を点検し続け、科学と疑似科学を考察すると、中道が悟るものなのだ。俺は、俺以外にも、このような発想が浮かぶ人と一緒にやりたいのだ。ハンターハンターの新世界に渡ろうとするジンのようだ。コツコツ小さな無茶を繰り返すうちに、破天荒なイメージができあがるのかもしれない。ただ、私は、無茶はあまりしたくないのだ。この辺りは、マンガと真相を知っている人の違いなのだ。俺は、それはできないしたくないと思う事なのだ。私は、暴力的な解決は、極力したくない悟り人なのだ。が、限界まで来たらするのが人の世のためなのだ。この限界は、いつくるかは、誰にもわからないのだ。日本の借金はいつ、崩壊するのか、というのは、わからないものなのだ。意外と早いかもしれない。意外と遅いかも知れない。それは、世界が全て連動しているからだ。私個人では、究極生命体にはなれないのだ。なぜなら、私は、肉体を持っているからだ。なので、少なからずの援助だけしたいのだ。この記事は、それを一定的に具現化しただけだ。私は、この記事を書いて、心がスッキリする。気付きが増えていくのだ。「ああ、そういう事か。うん、ではこれはどうだろう。こんなだったらいいな」と考えるのだった。私は、ペンは捨てないだろう。やはり、今は、人口と制度が、拡大し続けているからだ。それもそれで良いのだ。が、どの人も悟ってほしいのだ。その方が、自分を苦しめる人が減ると信じているからだ。私は、やっと自分が人類の一人という視点に循環してきたのだ。それにより、次の二週目をどうするか、対策が立てやすくなったり、ならなかったりなのだ。まあ、確かにプレートの地盤沈下は激しいものだ。が、それも人類が一人一人選択している結果なんだお。ほどほどに、その地盤沈下をどうするか提示していこうと思う。まあ、だいたいは既に提示しているのだ。まあ、どうするかは個人の自由だ。私も個人であった事に気が付かされた。まあそろそろ足を洗いたいのだ。やはり、何事もぷよぷよ大連鎖になってほしいからだ。妥協案も時には、必要なのだ。まだまだ、忍耐強く根を張る事だ。おしりの神経でピックッと起きるのだった。本気のインスピレーションに匹敵するぐらい一つ一つ冷徹に努力を重ねるブログ表現も良いだろう。誰もが、意識と無意識の器を、上下運動している事を意識で捉えられる事を願っている。何事mお神経質になりすぎない事で、自分を苦しめずに済むのだ。過去の腑に落ちなかった事が、どんんどんわかってくるのだ。これはありがたい。ごめんなさい。それでもなお俺は、純粋でいたいのだった。がってんがってんがってん。何とか研究者のキャリアを積みたいものだ。どうにか自分の考えてきたものを公に結実化させたいものだ。
 
神の使いだとしても、自己防衛で、「あの人は神を信じないけど、私は、神を信じている自分」という微量の悪想念を出してはいけないのだ。これが、後々自分を苦しめるのだ。
これは、神を信じる人がめちゃくちゃ陥りやすいパターンなのだ。というよりも、ほぼ100%の人が陥っている。それを感知できるようになる必要があるのだ。また、そういう事なんだと理性で知る事が大切なのだ。

戦争 肯定 否定視点

戦争 
私は、戦争嫌いである。が、色々な思索を重ねてきた。今回は、普通とは違う視点を見てみよう。戦争というのは、人間同士の大規模な殺し合いなのだ。戦争は、カルマの解消ということにも、繋がるのだ。エネルギーという視点で見れば、いたって、普通の事が起きているに過ぎない。人は、感情があるから、生存欲求があるから、自分が死ぬのが嫌だ。これを克服した人は、また違う視点なのだ。人は、罪を犯すより、死んだ方がマシという視点だ。相手を殺すより、自分が死んだ方がマシという視点もある。また、地球には、人が多すぎるという視点もある。様々な視点があるのだ。このような色々な視点を考えるのは、悟りに繋がるのだ。「自分がえ?」と思う事ほど、何かに繋がるのだ。私は、ある哲学者が、戦争だけは、悪だと言っていた。その時は、そうだなと思っていた。が、探究を続けると、どうもそうじゃない視点が出てくるのだった。勿論当たり前だが、戦争の悲惨さという視点もわかるのだ。起きるモノは起きるのだ。が、感情的というのも、また課題があるのだ。私は、「全てのモノを愛す」と決めた。となると、戦争はどうなのかと思索する必要が出てきた。20世紀の戦争により、この21世紀の今まで、戦争がなくなったという視点もある。ごめんなさい。と靖国神社に参拝をした。が、やはり戦争絶対反対という視点しかなかった自分と、戦争に何かしらの愛を持つ視点の自分というのは、変わっているのだ。マイケルサンデルさんも、哲学をすると、変わる自分がいると表現していた。大人になるのだ。戦争があるから、国家というまとまりが維持できるのではないかという視点もある。どうしたものかと。戦争が起きれば、私の今の生活は、一変する。それが、みんな嫌なのだ。が、創造的破壊というのもあるのか。第二次世界大戦で、本気で戦った日本は、破れて、その後、平和な国家になった。何という逆説的だ。という事は、本気の戦争が起これば、より平和な国家ができるのか。それとも、人類というのは、いなくなってしまうのか。どうなのだろうか。まだ、腑に落ちない。未来に起こる戦争を止める事はできるのか。ただ、私は、止めたいと思うだけだったのだった。なぜ、このような事を考えるかというと、一度オールリセットすると、また次に進めるのだ。これを繰り返すことは、無意識マップの完成に近づくのだ。私は、ごめんなさいと謝った。が、まだ腑に落ちない。数多の戦争があったから、今の自分がいるのだ。やはり、ここでも、「戦争は良いとも悪いとも言える。戦争は良いとも悪いとも言えない。どちらでもあるし、どちらでもない、、、、、。」というものか、、、。何かがまだ解除しきれていない。

善と悪 やってみなきゃという魔

やってみなきゃわからないという魔がある。がやってみるとだいたい自分の才能がわかるという魔もあるのだ。勿論、やり続ければ、ある一定は行くようになっている。が、やはり、その上があるのだ。そこを見極めるのが、大切なのだ。才能の発揮というのは、本質次元では、どちらでも構わないのだ。まあ、誰もが、才能の発揮をしていると、快楽物質に酔うので、気持ちいいのだ。ただそれだけなのだ。だから、才能の発揮もしてもしなくても、どちらでも構わないのだ。ただ、それは、人間が勝手に決めた善悪に過ぎないのだ。不快が悪で、快が善というものだ。不快の人が悪で、快の人が善というものとも言える。誰だって、夜と朝どちらか一方だけでは暮らしていけないのと一緒だ。人間は、どの人も、超俯瞰的に見えれば、変わらないのだ。誰が良い、誰が悪いというのは、思いこみなのだ。この事がわかる人が増えてほしいのだ。そうすれば、見た目上の良い悪いはなくなるからだ。

組織の回し方


苦労をしているのは、カルマを積んでいるから、苦労しているのだ。この事が世界の人が熟知していれば、変わってくるのだ。「苦労しているから、偉いのでない。本質的には、カルマを積んでいるから、苦労している。積んでいなければ、苦労しないということ。そこまでいくのは、なかなか大変な道だが、そこを悟る事が大切なのです。」「俺苦労していないよ」という人の方が、人生をしっかり運営しているのだ。端から見ると、大変な業務をしているが、本人は至って、冷静にしている場合なのだ。「苦労してきたよ」とばかり言う人は、カルマ積んでいた事を、過去の事を忘れている、もしくはちゃんと見ていないだけなのだ。むしろ、何がなんだかわかっていないので、人を他責ばかりしているのだ。そして、もっと深刻化させているのだ。
どのようにしたら、組織で潰されないのか。潰す側からすれば、「あいつ、うざい。どうにか潰したい。どうやれば追い込めるか」というものがある。やはり、物理的に潰そうと思えば、潰す事ができるのだ。それは、配置転換などの人事的な行為や、お金関係に関わる予算的な行為である。自分が予算権や人事権を持っているのに、それを覆そうとする人に対しては、徹底的に抗戦してくるものなのだ。こちらとしては、どうしたらより純粋にやれるかと考えた上で、そのような行為をするのだが、相手にとっては、脅威そのものなのだ。勿論、長い目で見れば、結局、そのより純粋意識に近い方に従った方がいいのだが、やはり相手の画面には、脅威にしか思えないのだ。なので、サラリーマンで、何かしらそのような改革をする人は、用意周到な根回しが必要になるのだ。俺は、浅はかだった。純粋意識的に考えたが、自分もまだまだ純粋意識に従いきれないというのがあり、結局そこで失敗に終わるのだ。そうすると、やはりそれが途中から反転してしまうのだ。どこに自分が純粋意識になりきれていなかったかというと、相手の下につくアイデンティティを取る行為をしていなかった事だ。そうすると、相手は、猛反発してくるのだ。この辺りに失敗の要因があるのだ。また、途中からやはり辞めとくかという判断になりやすいのだ。そうすると、その予算と人事権を獲得する立場になるまで、待つ必要があるのだ。ただ、そうすると、自分が既得権益側になり、それを死守しようとするのだ。俺は、そこまでやる気持ちには正直なれなかった。なぜなら、それを社長から任されていたわけでもないし、何十万人といった大きな規模の多くの人のためでもないからだ。大阪都構想等は、やはりそれぐらいの規模の話なのだ。そういう視点で見れば、やはり一個の塾教室の運営に、そこまで一人でバーを上げて、取り組むのも、少し違うものなのだ。相手も、そのような視点を持っていたと思うのだ。「たかだか塾教室で、売り上げもそんなないものを、そんな熱意込めても仕方ないでしょ。」というものだ。なので、俺は引いた。やはり、あまり意味がないからだ。正直そんな誰も、そこまで塾の運営に関して、気にしていないのだ。そういうものなのだ。これが、学校単位や、大学等のより大きな規模であれば話は変わってくるのだ。やはり、それだけ影響力が大きいからだ。やはり、人がどれだけ物理的に影響しているかというのが、判断の目安になるのだ。だから、純粋意識の上げ過ぎも、相手がその意味を理解していない場合、ただのお節介のように思われるのがオチなのだ。そして、問題は、表沙汰にならずに、火種として渦を巻き続けて、ある時表面化するのだ。それの繰り返しなのだ。teamで、純粋意識を持ち続ければ、物事は、ショックな事も多いが、それだけ問題は未然に解消できるのだ。そのショックを敵と見なすと、問題は、隠れてしまうのだ。ただ、この深い意識層のやりとりを、本音のディスカッションを日本人は、あまりしないから、問題が後で肥大化してしまうのだ。これが、今の日本社会にくすぶる社会問題の原因になっているのだ。そして、そのぶつかり合いを避けるから、また問題が深刻化するのだ。どちらもその純粋意識でやれば、その深い意識層が、クリーン化されて、問題が深刻化されない。いつも、問題が未然に解消されていれば、すっきりするものなのだ。どの人もその意識層に多くのカルマを溜めているから、それを解消する行為が必要になるのだ。この深い意識層に対するクリーン化の概念への共通理解が、この世界を平和にするのだ。日頃の悪想念を溜めた分の蓄積で、目の前に問題が起きているのだ。事件の際に、その深い意識層にいくものなのだ。そして、あれこれやるものなのだ。その際に、きっちり問題提起をして、きっちり共有事項を話し合う事が、未然のトラブルを解決するのだ。なので、誰々が悪いというのをしていると、それを増長してしまうのだ。リーダーとサブリーダーはその事をわかって、問題提起をする必要があるのだ。そうすると、フォロワー役も納得するのだ。お互いのカルマが溜まっていて、それの解消のために、このような激突をしているというのを、teamで共有していく必要があるのだ。だが、自分で何でもしたい人がいると、そのような事はわからないものなのだ。俺もそういう時期があったので、よくわかるが、それは自分を不幸にするのだ。執着心で、そのような事をしているのだ。強迫観念的に、物事を曲解しても、それはただ問題の先送りをしているのだ。
闘病生活中だから、それをできるだけ続けながら、乗り越えていく必要がある。

惰性とマンネリ

継続は力なりと、マンネリ惰性の魔
「継続は力なり」ということわざがある。が、継続していも、マンネリや惰性というものがある。これは、見極めが、とても難しい。何かをし続けている自分というのは、アイデンティティを蓄積している。が、そのアイデンティティによって、人を苦しめているのだ。私の母は、英語をずっと勉強している。が、それは、惰性になっている。が、それに本人は気付いていない。例えば、私は、少年ジャンプを読み続けていたが、途中で、惰性を感じて、続けるか迷ったのだ。が思い切って止めた。これは、英断だった。やはり、後々考えて見ると、いらなかった。誤解しないで頂きたいのは、少年ジャンプを読む人が、ダメだというわけではない。読んだ方がいいステージもあるからだ。特に、少年時代には、マンガというものは、とても無意識世界を、うまくカモフラージュして、伝えているのだ。この事に、気付くのも、一つの悟りの境地だ。目に見えるものと、目に見えないもの、双方を追究すると、ある時、ふと気付く。そして、19歳の時に、エヴァンゲリヲンの世界に、猛烈に惹かれていた。当時は、謎過ぎて、わけがわからなかった。色々な説を見ていた。が、今ではほとんど、どういう無意識世界の真意かわかるようになった。「このシーンは、無意識世界のこれを表しているのだな」と。全然気が付かなくて、ごめんなさい。と伝えたい。やはり、とても表現者というのは、精密に考えて作成しているのだなと思ったものだ。全てが繋がってくるのだ。ごめんなさい、傲慢で。一瞬の傲慢が、違うところに来るのだ。特に、自分達が作成したという傲慢が、一番の命取りだ。神と共に作成したのに、自分がさも作成したような顔をしていないだろうか。私は、恐ろしい。だって、魂と神は、いつでも内外反転を起こそうと思って生きた方が謙虚で居続けられる

 

 

追記

ヱヴァンゲリヲンがよくわからなくなった。逆に小難しいのは、あまり好きじゃなくなった。内外反転の法則がある。 -エネルギーがたまり過ぎると、過度な-場面が訪れるようになっている。

 

 

 

 

 

 

上杉謙信 手紙

上杉憲信は、宿敵の武田信玄に対して、相手方の苦しむ民を重んじて、「敵に塩を送った」とされる。もし貴方が、上杉憲信になったとして、戦争を避けるインスピレーションを与えるために、停戦協定の手紙を送るとしたら、どのようなものを送るか考えなさい。一部の前提として、「領土は渡したくない」と上杉憲信は思っています。
武田信玄殿
貴方と私は、隣同士の領地ですので、諍いが絶えません。が、私も貴方も領主であるので、同じような行為をし続けているに過ぎません。民は、平和な世の中を望んでいます。この戦国の時代にこそ、我々が共に歩む道を探りたいと思い、このような手紙を書きました。私達は、もうこれ以上争う事のないように、条約を取り決めては、いただけないでしょうか。今の領地で、お互い十分繁栄させていけるはずです。異国の者達も多く入り、我が日本を脅かす存在になるやもしれません。ある使いに停戦の協定を申し入れたいところです。私と貴方は、質実剛健ですが、何卒、これからの日本のために、共に一緒に協力し合いませんか・僭越ながら、私としても、私の娘と、貴方様の息子を、お互いの証として、守りませぬか。また、私としては、この家宝を貴方様に送りたいと存じております。何とぞ、良き計らいを期待しております。ご無礼ながらに、文面でまずは、送らせていただきます。
上杉憲信

とまあ、適当な文が出来上がるのだが、このように歴史上の人物に視点転移をして、新しい表現活動をする事が大切なのだ。「時代認識的に、外国の脅威は、そこまでではないから、少し離れているな。」「政略結婚というのは、一つの形だ」「家宝を渡すのは、少しやりすぎか」とそれなりの評価ができるのだ。というより、自分で考えた視点を発信する事により、結局歴史上の人物や用語と、同じような事をするという事がわかるのだ。改めて、そのような時代の積み重ねにより、今の自分達がいる事に感謝なのだ。時代の積み重ねで、現代システムになっている。
その人なりの、表現ができる余地がある問題を作るのだ。上杉憲信性の獲得に繋がるのだ。手紙をもっと、きちんと学ぼうという意欲もできるかもしれない。
そして、武田信玄の断りの、手紙というのも書けばなおいいのだ。そうすると、自分の何の表現が気に食わなかったのかというのが現れてくるのだ。そうすると、双方の視点を獲得する事になるのだ。「まあ、政略結婚は、信玄は受け入れた試しがあるが、息子は嫌だろうが、、、、娘ならいいかもしれない。」となり、また違う文面になるのだ。文面を送る相手方の情報がとても大切な事に気付く。それにより、密偵の重要さにも気付く。昨今の日米の外交にまで、範囲を拡大して、考えるのも良い。政略結婚が使えないケースなので、それに代わる手が必要だという事もわかる。「現代では、政略結婚の代わりに何になっているのか」という発想も浮かぶのだ。外交というのは、自分が当事者感覚になった時に生まれるものだ。個人と個人のケース。共同体と共同体のケース。国家と国家のケース。と色々なケースを考えるべきなのだ。北朝鮮のキムジョンウンさんに、視点転移をする事も大切なのだ。そうすると、また違う視点を手に入れられるのだ。