verymuch8’s blog

先に申しますと、保険をかけてるというより、誠意表現ですが、ここに書いてある記事は、役に立つ事実はほとんどないでしょう。 その分野をよく知らない人でも分かるように、分かりやすい事例を用いた直情的な文章のため、傲慢な態度で、読みたくないという方には、申し訳ないですが、なかなか品格がある文章に校正する時間がありませんのでご了承下さい。スピリチュアルや哲学が主な分野ですし、まやかしに過ぎないです。専門分野は、日常生活の微差(微妙な差)の研究です。こんなプログではございますが、訪問してくださった方に少しでもお役に立

顕在意識の良さと悪さ

顕在意識が強まると、飯が旨くなるのだ。
肉体次元の話として、貪って、がっつくと、美味しくなるのだ。
だから、貪る人は、食欲が強くなるのだ。食欲が強くなると、肉体の話として、飯が旨くなるのだ。食欲が弱くなると、魂体が活性化するのだ。

イエス・キリストの話として、「パンと神からのみことば、どちらが大事か」というと、その人次第だが、私は、みことぱを選びたい。

結論としては、潜在意識と顕在意識の往復動作を増やしていくことなのだ。

ただ、これは結構疲れるのだ。神経と体を使うのだ。食欲と頭だけを見分けるのだ。今噛んで良いか、止めた方がいいかを、徹底的に叩き込むのだ。往復動作を増やしていくことなのだ。

キリスト教学校教育Online Newspaper
http://www.k-doumei.or.jp/np/2002_11/04_02.htm

キリスト教学校教育Online Newspaper

やはり、これも、「顕在意識と潜在意識の往復をしなさい」ということなのだ。
悟ると、ただこの一言に、全てが内包しているのだ。わからない人は、まだ悟ってないのだと思っていただきたいのだ。

顕在意識でも、パンを食べて、潜在意識でも、パンを食べなさいということなのだ。一度心に聞くことなのだ。この調整がとても大切なのだ。

プレゼント学 最終結論版

プレゼントを、誰かにあげる際に、どのようなもの選ぶかというのは、色々ある。
私も、様々なプレゼント攻撃をよくしたものだ。
ただ、貰ったものは処理に困る。
手作りのモノだと、余計に困ってしまう。

ということは、
渡す際に「あげたものは、全部捨てて良いから」「誰かにあげてもいいから」と伝えるのだ。これが、究極のあげる側のプレゼント学なのだ。

これは、カルマを作らないのだ。物の管理をしっかりしないと、負のエネルギーが放出されるのは、以前にも書いた。
だから、貰ったもので、使わないものは、捨てるか、あげるか、使うか、どこかしらに循環させなければならないのだ。しなければならないという言葉は、あまり使いたくないが、結局その人のためにならない場合は、しなければならないという語感を使うようにしたい。

貰う方としては、基本的に、モノにも因るが、敬意をもって、捨てるに限るのだ。本人に返すのもいいが、関係によるだろう。

いつまでも、同じものを置いていると、循環にならないからだ。
だから、熊手等は、神社にお返しするのだ。「熊手返すの忘れたと周囲に伝えるのは良いことなのだ。少しバカみたい魔があるが、それはそれでいいのだ。
どの人もこの人には、これを言いたくないという魔がある。
結構負けているのに、私は気付くのだった。まあ言わないのだが笑

必要なものだけ、視覚に入れれば良いのだ。が、公共の場に関しては、皆で決めるものだ。

プレゼントも、悟りのためにある。また、人間関係の構築にあるのだ。


バレンタインのチョコも、うまく色々回すのだ。バレンタインのチョコは、一口食べる。そして、本人や友達に渡すようにする。そうすると、分け合えば、余るのだ。全部食べないといけないという思い込みを解除し、誰かに渡してはいけないという思い込みを解除し、食い意地を張らないという魔に勝ち、失礼をなくすという魔にも勝つ。そうすると、うまくいくのだ。
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見知らぬ人への魔 温泉、コーヒー店の例

温泉施設には、どんな魔があるだろうか?
温泉に行った。
ここでは、様々な魔がある。
温泉のお掃除のおばちゃんに、マッパで、トイレはどこか聞く魔があった。
ちっちゃい女の子と目を合わせる魔もあった。
人の落とし物を、すぐ渡す魔もあった。
警備員の人に話しかける魔、正直に、違う場所に止めているから、困るというのを話す魔。
アンケート用紙に答える魔
自分がタバコを吸わなくても、喫煙所にいく魔。
正直に受付の人に、事情を説明する魔。
すぐ他の人にサウナを譲る魔もある。
温泉では、ほぼ魔と戦うものがなくなってしまった。
ごみ拾いをして、帰るのだった。
可愛い子を見つめる魔もある。
どの状態にも、自分を転移できるかどうかなのだ。

人は、なかなか悪口を受け入れられないが、受け入れる心の広さが、自分を苦しめないのだ。

やはり、クラリネットの音が、私は好き
だ。真面目に言葉で表現しても、面白くないのだ。
究極の実在を、音楽で表せたら、素晴らしいのかもしれない。モーツアルトの曲のように、聴覚だ。
ただ、よく言われる高い波長の楽譜だけでは、なかなか難しいのかもしれない。
やはり、誰もが私のように、目で、瞑想で、見たいのかもしれない。

が、味覚で伝えるのも、究極の実在のイメージの一部を、究極の頭だけじゃないのかもしれない。

ウィローという植物エキスのように、嗅覚もいいのかもしれない。触覚もあるかもしれない。
最高結晶体のイメージだ。魂が喜ぶものだろう
無意識マップなら、できるはずだ。究極の実在のイメージを、味やらで伝えることも。
コメダコーヒーのアイスミルクコーヒーで、何か見付けられないか苦労するのだった。リラックスしきるというのも、また必要なのだ。
私は、本が成功するまで、人に会わないというの魔も、圧迫のためだが、結構きついものなのだ。

魔というのは、それぞれの人が見つければ良いのかも知れないとも思うのだった。
誰かの何かを守るために、人は生きるのが幸せなのだろう。
私は、昼になかなか歩くのが大変なおばあちゃんに、声をかける魔があった。
そう、なかなか人は声をかけないのだ。かけてもらうと、とても嬉しいのだ。
そして、過去の楽しい思い出を話してもらうのだ。
誰もが、自分の人生を認めたいのだ。おばあちゃん孝行は、こういう地域の人にも、していければいいと思うのだ。
ビジネスライクの思考だと、売り上げに繋がるかというものばかりだが、それでは、声をかけないのだ。
私も、一切声をかけなかったビジネスマン時代がある。が、声をかけた方がいいと思った時は、かけてもいいのだ。

さて、音楽にリズムを刻めば、楽しい躍動になる。ただ、楽しい顔が見たいだけなのだった。いや、自分も楽しくなるからだろう。
魂の時間調整は、バッチリなのだ
やはり、思考哲学をずっとやってよかったかも知れない。バック走をしながら、自然を見るというのもあるのだ、これは、躍りなのだ。やはり、家族といるのが自然体なのだ。家族で出せるものが、自然体なのだ。
一人の生活を極めれば、全ての人ともうまくいくのだ
私は、色々な人の事を考えてしまう癖があった。すごく辛いのだ。
だが、どうすればそれができるか、魂を磨きあげれば良いのだ。そうすると、自然と、普通の時間軸でも、うまくいくようになっているのだ。
私は、ずっと葛藤した。愛し合いたいだけなのだ。別の側面では、魂に誰もが忠実なのだ。が、誰もが、愛し合うことができるのだ。
コメダコーヒーに、ごみ拾いをしたごみを店員に申告する魔にも勝てた。この一瞬のやりとりの連続なのだ。ちゃんと周りを見ておくことだ。ごめんなさい。ありがとう。
ただ、私はお寺の住職に、昔のような純粋な気持ちを持ってほしかっただけなのだ。だから、相手が言っている準備というのも、必要だという視点は、重々承知なのだ。ごめんなさい。ありがとう。ただ、自己防衛には走って、他を疎かにしては、自分を苦しめるだけなのだ。今は、スマホで大概調べられるが、逆に現地の人との対話がなくなったり、遅くなったりするのだ。自分でいる時間に、どれだけ楽しめるかなのだ。
一瞬でも、大黒摩季さんの歌が聞けるかどうかなのだ。人間は、色々気を配ることが動物との違いなのだろう。繊細で広い心を持っていたい。自分のコミュニケーションの失敗も反省して、頭で変えていくのだ。
状況、状況で立場を転移するのが、必要なのだ。どの人の気持ちにも転移すると面白い。
家族四人だと、面白いのだ。どの人も個性を活かしている。時折、素直になることだ。やはり、何事も楽しむことなのだ。一つ一つの動作で、お返しをするのだ。どの人も、活かし合えるのだ。ちょうどいいバランスになるのだ。時たま、神に感謝するのだ。焼き肉でも、ケーキでも、楽しめるのだ、ありがとう。ごめんなさい。私は、いつもわがままだった。活動が大切なのだ。マナーが大切なのだ。
テンイドライブは、どこでも近場でもできるのだ。
自分が、どこでも受け身が取れるようにするのだ。何か嫌な気持ちになった時には、神に聞けば良いのだ。
魂は、愛し合いたいのだ。
やはり、味覚で、伝えるのは、難しいかもしれないと思ったものだ。聴覚も、難しそうだ。触覚も難しそうだ。嗅覚も難しそうだ。視覚なのかもしれない。
やはり、同じような魂で、感じるものなのかもしれない。私は、天衣無縫の術とは、もっと力強く荘厳なイメージだったが、もっと柔らかなものであったのだ。頭で頭でばかり行動してると、見失うのだ。だが、やはり頭も大切なのだ。笑い会いたいのだ。私の家族に、笑いが絶えなくなったのは、魂のお陰なのだ。みんなが、困難に打ち勝っているからだ。どの人も、支え合っているのだ。普通が一番なのだ。普通でいられることは、とても有り難いのだ。私は、その事を教えてもらった。決めなければ、うまくいくのだ。私は、考えてしまった。考えなくてもいいのだ。それが、家族なのだ。だから、いがみ合ってもいいのだ。どれでもいいのだ。私は、今日も楽しく生きられている。それは、有り難いのだ。ごめんなさい。手伝わなくて。弱核力も、極みまでいけば、面白いのだ。
歩調を合わせるのも、大切なトレーニングなのだ。
家族間の魔がどのように、あるか色々と伝えたいのだが、いかんせん自分も当事者だと、内容を整理するのは、難しいのだ。
わかりやすいラインとしては、誰もが、笑い合えていれば、それでいいのだ
が、どこかで、当事者になりながらも、俯瞰した中継ができる日が来てほしいと思うのだった。焼肉屋でも、色々な楽しみ方があるのだ。

超能力 メリット デメリット

超能力のメリットとデメリットがある。
下記は、めちゃくちゃショボいのだが、一応載せてる。削除したくなるのだが、中級者用~初級者用に。上級者用は、追記で、書くかもしれない。

      • -

デメリットとしては、
①周囲に知れてしまうというのも怖いのだ。自分への悪口や迫害というものが、知れてしまうのも、また頭が痛いものなのだ。
全ての周囲の人の陰口が認識したら、ビクビクしながら、生きないといけないのだ。そのような幻聴の体験をしてる人もいるのだ。→すいません、これはレベルが低い人の見解です。周囲にバレません、バレないように生活できるように何かと導かれています。

私は、目に見えないものを扱っている人に対して、悪いように思われるかもしれないという強烈な思い込みがあった。
これは、やはり良くないのだ。だから、自分が必要な悪口を聞ければいいのだと思ったのだ。
また、魔に対して、「今日朝寝坊しちゃった」「えー、私も」というのは、甘えあいだが、「あ、こういう強い思い込みした」という新しい気付きまで、深められれば、いいのだ。
普通の日常の会話の循環というのも、必要なのだ。
「電車が、人身事故起きちゃった」「行けねーじゃん」というのも、また、気軽に話すのも重要なのだ。
アインシュタインは、ある実験の失敗について、「この方法でうまくいかないことがわかったのだから、この実験は成功です」と言ったという。このように、失敗を考え方と行動で、プラスに変えられるのだ。
②相手の氏名等がわかっても意味ないものだ。昼飯のおかずがわかっても仕方ないものだ

□追記
デメリット面も考慮すると超能力はなくてもいいのだ。
超能力が発現しないと、この世の真理はわからないのかもしれないが、発現してもわからない分野もあるものだ。
論理的に、どうしたら輪廻転生があるのかわかるかと考えたが、なかなかこの難問はとけないものだ。
実際に、霊が移動する事はあるだろうが、霊が歩くか?と言われたらわからないと言えるし、なんともいえないものだ。
デメリットは、後遺症や合併症が出てくる事だろう。
合併症が意外と知られていない。私もこれで苦労したものだ。

sekawara.hatenablog.com


□追記
超能力が発現したら、霊が、乗り移ってくるケースもある。霊の嘆きを聞いたりする事もある。

□追記
事故現場に関して、痕跡を残さないようにする。痕跡を残す人は、本物ではない。一般人には、わからないのだ。派手な動きは必要ない。音もなく、静かにするのだ。
監視カメラに映ってもいいように、後ろで、印を結んだり。パンフレットの中で、したり。ナルトでも、現代社会版が出ると、分かりやすい。

もうちょい書ける日が来ると良い。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。このご縁に感謝です。

究極の実在と神と悪魔 検証の余地

究極の実在は、善悪を超越している。
ただ、これはまだ完全には、俺は悟ってないので、最終結論にはできない、無意識マップなのだ、何でもかんでも、最終結論にすると、やはり信用を失うのだ、。無意識マップを検知して、ああ、ここは進んでないというのは、適切に伝えていく必要がある。

が、人格神と人格悪魔は、魂に扇動させるのだ。ここが違いなのだ。むしろ、人格神と人格悪魔が、協力していると言える。どうやって、この者達に、私達の存在を知ってもらうようにするかというものである。だが、人間には知る必要があるのだ。それは、人間に生まれたから、必然なのだ。色々な方法で知ってもらおうとするのだ。それは、人間のためでもあるのだ。
私は、魔ということは使っているが、悪魔という表現は、あまり好きではないのだ。それは、苦を悪魔と捉えると、頭が痛くなるように作られているのだ。この神というのは、どのような表現になっているか、人というのは違うのだ。
①この世界の全てのものを神と呼んでいるのか、②人間にとって都合が良い動きを神と呼ぶのか、人によって違うのだ。
ここは、だいぶ統一が取れていない箇所なのだ。自分の頭が痛くなるのは、誰もが嫌だが、それがその人のためになってもいるのだ。人間は、頭でっかちだ。私も、とても頭でっかちだ。
だから、色々と、自分を見失うのだ。心がなぜ、大事かというのを、考えるのだ。そうすれば、頭でっかちが解消されるのだ。自分で作った頭でっかちで、自分を苦しめているのだ。魂は、頭にある。頭が頭が頭が魂なのだ。心と、魂は頭で一緒に連動しているのだ。

挫折の魔 利害関係の魔

やはり、利害関係の魔がある。
純粋に相手を思うと、利害関係を超えられる。自分で、こんなにしちゃダメだろうと思ってしまいがちだ。それも魔なのだ。
利害関係モードから、純粋モードに変えていくのだ。利害関係の魔に勝てば、どの人にも、神の座で、祈ることができる。
色々な喧騒に負けずに、純粋な気持ちで居続けられるのだ。やはり、場にいると、どうしても利害関係を意識してしまう。
私は、今どの人も、利害関係を気にせず、魂に祈る事ができる環境にいる。うだうだ利害関係を気にして、ごめんなさい。ありがとう。感謝したい。

挫折の魔というのは、今までの自分の挫折したシーンばかり思うことだ。
が、この挫折というのは、魂の最短ルートを通らすために、必要なことなのだと神が教えてくれた。
魂は、多角的な経験をしたいのだ。そのためには、挫折させるのだ。挫折すると、バツが悪い。が、挫折を、顕在意識で無理矢理変えようとするのは、魂に毒なのだ
ルート変更をさせないと、魂の最短の悟りにならないのだ。
悟りとは、利害関係を全く考慮に入れずに、どの人に対しても、恒久平和を祈る気持ちそのものだ。
私が最短で悟ったのは、挫折と葛藤が、人のうん倍も多かったからだ。
私の魂は偉大なので、目の前に起きている現象が、やけに葛藤が起きるのだ。
魂のステージが違うと、そうなるようだ。だから、私は挫折も愛する視点を手に入れた。確かに最短だった。
自分に起きた葛藤量が、悟りに繋がるのだ
見た目で判断する人には、わからないのだ。名実ともに○○、というのは、人間界での視点なのだ。ごめんなさい。
ありがとう。挫折に勝ってもいいのだ。という事も伝えたい。
私は、挫折に勝った時が多かった。トロフィーもゲットした。
それは、挫折が多かったからだ。甘やかす事も時には、必要である。うまくいかない事もあると愛する事だ。
私は、もう少しで自動書記ができるようになるだろう。
今は、魂に集中して、書いているだけだ。挫折すると、無意識マップが拡がるのだ。私は、同級生を、神の視座で祈るように心がけるのだ。全てのものは、繋がっているからだ。この繋がっているという体感を得ることが、一つの悟りであろう。
私は、人前では祈らない。神は、どこでもいるからだ。現象界の成功が、悟りではないのだ。ごめんなさい。ありがとう。
ついつい、私もそうはいっても、現象界のために働きたくなるし、現象界での「成功」というものに、囚われる魔にやられる。

やはり、神だけじゃなく、人にも、認めてほしいからだ。やはり、真理に認められたいのだろう。
ただ、人というのは、ずいぶん身勝手な評価しかしてないのだ。私も、昔の授業を思うと、沢山身勝手な認識しかしてなかったのだ。ごめんなさい。何も、人間について知らないのに、わかったような口を聞くのだった。そのために、社会というものがあるのだろう。ついつい人は、身勝手な○×をつけている。それが、お互いを苦しめているのだ。
私が今抱えているテーマとして、どこまで人は、心と頭脳により、相手に最適なものを提供しているかというものだ
ここが、まだ解け切れていないのだ。自分の心というのは、自分の行くべき所を知っている。脳の認識の器が、魂だ。どこにセットしているかというものがある。魂が、どの無意識層に、セットされているかによって、情報処理が違うのだ。深いところにいけば、より次元が高いインスピレーションを得られるのだ。
どの人も、得られるということだ。
自分だけで情報を抱えようとする魔もある。
深い話を伝達するのも、また人間には必要なのだ。意外と、ありがたいのだ。自分の話は、そんなに役に立たないだろうという魔がある。私は、この魔にやられることが多かった。また、相手の言い分をジャッジする資格はないという謙虚さがあった。
が、これ以上ない情報を無料で大多数の人に公開している
究極の実在について、沢山の魔について、日常生活の活かし方について、、、だ。
究極の実在の動きのイメージを、作ってほしいなら、作ろう。
確かに、纏めきっているわけではないのが目下の課題だ。が、一部分でも、相当のヒントを出している。ここに辿り着く人は、幸いだろう。一人の人間が、ずっと探求したものを、タダで見られるからだ。何事も、ごめんなさい。ありがとう。なのだ。どなたかは、その正体を教えてもらうのに、何百万払う人もいるからだ。どの人も、魂次元の働きを関知できる世界が来るのだ。そうすると、有り難いだけなのだ。ただ、愛し合いたいだけなのだ。だから、自分が損したという魔に負けないことだ。魂次元の働きをする事に、損したとは思わないように心掛けている。

間違った方向 神

神は、間違った方向に行っても、助けてくれない。いや、猛烈に助けてくれているのだが、自分達で、より間違った方向に向かってしまうのだ。
これを、自戒の意味で、「神は、間違った方向に行っても、助けてくれない」のだ。これが、真実なのだ。
残念ながら、そうなのだ。「気付かない貴方が悪いのです」
気付かなくて、ごめんなさい。気付かせてくれて、ありがとう。
「助けてクレー」は、おかしいのだ。十二分に神は助けているのだ。だから、悔い改めないあんたが悪いのだ。自業自得なのだ。神を責めるのは、やってはいけない行為なのだ。
自分が全て悪いのだ。私は、メッセージをしっかり受け取らなかった。だから、間違った道にいった。だが、全ての存在からすれば、それも愛してくれているのだ。どれも、勉強なのだ。自分が嫌な道も受け入れるのだ
嫌な道になりたくないなら、その分そうならないように努めれば良い。が、どうせ嫌なことは起こるのだ。それが、人間の宿命だ。
私は、神を責めた過去がある。
が、私は、神を責めることはしない。
ごめんなさい。ありがとう。
私は、高校生の時に、バイトをしたかった。だが、母は、反対した。自分の思い込みが激しい人なのだ。私は、そこでカルマを作った。人というのは、最低限の事をしていればいいというわけではないのだ。私は、学校に通うだけだった。だが、それではダメだった。間違いに気付かないまま、親の言いなりになっていた。そして、浪人している時に、アルバイトを始めた。こんなに働くのは楽しいのかと、思ったものだ。ごめんなさい。ありがとう。確かに人生は、自由に生きて良いのだが、生きても、自分を不幸にする生き方があるのだ。それは、自分のためにならない。同級生に、ごめんなさい。神に気付かせてくれて、ありがとう。
どの人も、自分の魂の声に、素直に純粋に従えば良いのだ。
私の母は、いつまでも傲慢だ。性懲りもなく、罪を犯し続けている。自分が支配した事が、相手にとって、不幸にさせていることに、気付いていない。だから、私は、仕事で嫌な目に遭った。それは、因果応報なのだ。ごめんなさい。ありがとう。
ただ、私が甘えていた。自分で分別すればいいだけだったのだ。
と人を責める前に自分を律することである。神が間違った方向に進ませる場合も時にはあるのだ。それは、人間にとって修行の嫌なことなのだ。